開発協力会社が“失踪”するという、第三営業部が事業部に昇格してから初の大事件は、桜井君とリエピーの頑張りと中田部長の活躍でなんとか乗り切ることができました。そんな折、上場企業から大きな商談がリエピーに舞い込みます。一方、猫柳君の新規開拓の努力をすんでのところで無にするところだった根積課長が、またぞろ不可解な行動を始めました。


「おはようございますっ! このたびはお引き合いいただきありがとうございます、あたくし後藤と申します。よろしくお願いいたしますっ! あわわわ」
 ここは上場企業、王子繊維の役員応接室です。名刺交換をしたリエピーこと後藤さんでしたが、おおぶりでフカフカのソファは小柄な彼女が勢いよく座ると体が半分くらい沈み込んでしまいました。
「わはは、元気のよいお嬢さんだね。こちらこそよろしく頼むよ」
 総白髪で金縁めがねの上野専務がそう言いました。
「それにしてもお一人でおみえになるとは…」

 今朝のことです。
「プルルルッ! プルルルッ! プルルルッ!」
「はいはい、うるさいな。誰か電話取れって! 誰もいないの? もう後藤! 後藤がいるじゃないか! お前が…。あ、電話中か。仕方ないな」
 根積課長とリエピー、坊津君以外は全員外出中です。坊津君は会議室にこもっての作業中。リエピーもほかの電話に出ており、かかってきた電話を取れる人はいません。けたたましく鳴る電話を面倒くさそうに取ったのは根積課長でした。
「はいはい…あひ? お、おうじ繊維? 王子繊維がなんの御用で…は、かしこまりました。上野専務様ですね! それではえーっと。今すぐ参りますので」
 根積課長とリエピーが電話を切ったのは同時でした。
「もう根積課長! さっさと電話取ってくださいよ!」
「うるさい、ちょっと聞け!」
 いきなり口論の二人です。根積課長が説明するには、今の電話は一部上場の王子繊維という会社で、今すぐ営業と会いたいとのこと。用件は、至急システムの見積もりを取りたいとのことでした。
「あやしいですね…。それって中田部長が先週やった『取引先リスク管理勉強会』での、要注意ケースに当てはまるんじゃないんですか?」
「なんだ、そりゃ?」
「楽多ソフトの一件もあって、お客さん、協力会社を問わずに危険な取引先や引き合いを見分ける勉強会をやったじゃないですか。あ、根積課長は欠席だったからご存知ないんですね」
「なんでもかんでも、中田部長、中田部長ってお前らは…俺はベテラン課長なんだよっ! あんなやつの話なんか聞かなくたって」
「あー、言いつけてやろうっと。『飛び込み電話の引き合いは100%危険』って、ほら、あたしのノートにも書いてありますよ。それに、今すぐ来なさいですって? 『客が急ぐ商談は100%危険』って、ほらもう合計200%の危険度ですよ」
「グダグダ言ってないで、ヒマなんだろ。とっとと行け。お前の今日のスケジュールはチェック済みだ」
 入社以来、先輩のフォローばかりで最近つまらないし、早く自分でも新規受注を取りたいリエピーでもありましたので、しぶしぶながら根積課長の指示に従うことにしたのでした。

「で、今回はどのようなお話でしょうか?」
「これは極秘なのだよ。君に秘密が守れるかね? 上席の方と来たほうがいいんじゃないか?」
「大丈夫です。極秘情報なら、なおさら聞く人は少ないほうがいいですよ、せんむー」
 ソファで足をジタバタしながら話すリエピーに頼りなさを感じた専務でしたが、リエピーに促されるように説明を始めました。

(イラスト:尾形まどか)

 経営状態が苦しい総合アパレル業の王子繊維は、昨年からライバル企業の上野テキスタイルグループと密かに接触を持ってきました。狙いは紳士服部門の再編です。紳士服部門は中国製品が台頭したため、高級品が売れなくなり苦戦続きです。今回、グループ企業で紳士服製造販売の王子ダンディを、上野グループ子会社のウエノスーツと合併させることで合意しました。新会社の社名を『ウエノダンディ』とすることも内定しています。しかし、両社とも上場企業であり株価に影響するため、正式決定まで絶対に秘密です。
 ここまで一気に話をすると、専務はふうっと息をつきコーヒーに手を伸ばしてから、もう一度リエピーに確認しました。
「さあ、ここからが本題だ。本当に君で大丈夫かな?」
「当たり前ですよー。ごらんの通り、あたしは優秀でかわいい営業ですからね。でもほんと、このソファ、ふかふかでダメですね、買い換えた方がいいですよ」
 なんだか頼りないなあと、改めて思いながらも専務は話を再開することにしました。

 リエピーが出て行った営業部のオフィスは、根積課長だけになりました。
「さあて、アホな営業たちが帰ってこないうちに。うひひひひ。株の動きはどうかなっと」
 根積課長は、カバンからノートPCを取り出してカチャカチャやり始めました。
「おおっ、こりゃ指値で売りだな。で、これは成り行きで…」 手馴れた手つきでで、次々と指示を出していく根積課長です。
「全く、あんなバカどもと仕事なんてできるかってんだ。こっちは安月給で飲み代にも事欠いてるってえのに、母ちゃんは小遣い減らすしなあ、もう」
 なにやらボヤキ続ける根積課長です。
「先週、ケンシロウさえしっかりしてくれてたら…」
 どうやらパチスロで大負けしたようです。
「その点、株は堅いよなあ。IT系企業の情報なら、たっぷりあるし」
 そのとき、根積課長の携帯電話が鳴り出しました。自分のケータイは即座に取る根積課長です。
「はい、根積です。あ、こりゃどうも! 遠藤部長じゃないですか。ご無沙汰してます。ランチですか? すぐ参りますよぅ~。えっ、じゃ、一杯だけビールと行きましょうか」
 電話の相手はなんと、あの“遠藤”でした。

 オフィスから一駅離れた一流ホテルの寿司屋で、密会は始まりました。
「再会に乾杯! しかし根積課長のような実力者がなぜ、あんな中田なんかの部下なんですか?」
「そうなんですよ。3000万、5000万と小物ばかり取ってきては、若いヤツと浮かれてばかりいる最低な男ですよ、あれは」
「そうですよね。根積さんの当社との受注実績と比べれば、小物ばかりだ」
「5年前はマルヤマ建設さんで5億円の請負をご発注いただきましたよねえ」
「そうそう、あれは根積課長がいたから貴社への発注が決まったようなもんですよ。ま、結局いまだにあのシステムは、動いてませんけどね」
「いいじゃないですか! 中止にならなけりゃ、失敗プロジェクトじゃありません」
「そうだね。ずるずる金を引き出せるし。まだ使ってないからバグも出ない」
「わはははは、保身に走って中止する根性のないCIOこそ、我々の最高のお客さんですな!」
 根積課長が最低の話題で盛り上がっている相手は、ロムラン電子の遠藤部長でした。
 ロムラン電子は以前、中田部長が務めていた外資系コンピュータメーカーです。遠藤は当時、中田部長の部下でしたが、ある事件以来たもとをわかっています。以前、桜井君が担当する洞口金属の案件でコンペティタとして登場し、汚い手口で案件を横取りしようとして、火花を散らしたこともありました。

「で、本日はどのようなお話ですか?」 (次回に続く

今号のポイント:営業担当が陥る“うっかりセキュリティ”

 個人情報保護法が2005年4月から施行されました。IT企業ではプライバシーマークだなんだと、かまびすしい昨今ですが、個人情報どころか、あなたの会社の営業情報、漏れてませんか?
 「壁に耳あり障子に目あり」とはよく言ったもので注意してみると、街では様々な危ない光景を目のあたりにします。皆さんも産業スパイの気持ちで歩いてみてください。私などは先日、電車内であるIT企業の役員会議の議事録を全部読んでしまいました。つり革につかまっていたら正面の座席の方が議事録を広げていらっしゃいまして、ついつい…。そんな人が役員をやっている会社が、セキュリティシステムの広告を出していたりして(笑)。
 営業担当ならではのセキュリティ対策は、次の4つです。

その1【仕事の話は小さな声で】
 電車やエレベータはもちろんですが最近危ないなと思うのは携帯電話です。ご注意ください、そこの大きな声で電話している人。丸聞こえです。送話のボリュームはもちろん、静かなところでは注意して聞けば受話音だって聞き取れますよ。

その2【どんなときも顧客名はイニシャルで】
 イニシャルトークはみんなでやっているとゲーム感覚で楽しめます。会話についていけない人は、みんなとコミュニケーション不足ってことにもなります。これはクセにしなければならないことの1つでしょう。ただし、略称や符丁でも結構ですけど、失礼な呼び方はやめましょう。ここ一番でつい、でちゃいます。

その3【社章はつけたり外したりするために】
 もちろん、営業として客前での社章の着用は基本ですが、提案中の企業ではライバルとすれ違うこともしばしば。私は部下にバッジのチラ見で競合の社名が分かるようになれ、と指導していました。

その4【行き先ボードは通り道から見えないように】
 オフィス内を通って会議室に通す場合、絶対に見えます。顧客名、丸分かりですよね。業者同士だから応接じゃなくていいや…油断しないでください。昨日の友は今日の敵っていうのが、この業界の常ですから。

油野 達也
自らもトップ営業として活躍しながら、自社の営業担当者だけでなくパートナー企業の若手営業、SE転身組を長期にわたり預かる育成プログラムに尽力。ITコーディネータのインストラクター経験もあり。