システム開発の責任者にとって最も気掛かりなのは,プロジェクトの進ちょくだろう。しかし,それだけで頭が一杯になるようでは周囲が見えず,メンバーの意見や事情を無視しがちになる。チーム全体と,メンバー1人ひとりの目標をうまくバランスさせることも,リーダーが備えるべき資質である。

イラスト 野村 タケオ

 Aさん(43歳)は,大手SIベンダーL社のベテランSEだ。2003年12月から,加工食品大手のD社における販売・物流システム開発プロジェクトを,マネジャーとして指揮している。

 2004年8月初旬のこと。Aさんは,朝から機嫌が悪かった。1本の電話が原因だった。「ちょっと来なさい」。Aさんは立ち上がり,プロジェクト・メンバーの1人を会議室に呼んだ。B子さんだった。B子さんは,きっちりとした仕事振りで将来を有望視されている若手エンジニアである。

 会議室に入ると,AさんはB子さんをいきなり詰問した。「来週,本社で開催される研修に申し込んだんだって? それも,1日や2日ではなく,2週間にわたる研修だと言うじゃないか。どういうことなんだ」。B子さんはきょとんとして,「この研修を受講することは前からお伝えして,了承いただいていましたが…」と答えた。ここでAさんの怒りが爆発した。「何を言っているんだ。今は結合テスト直前だぞ。研修なんか受けている場合ではないことぐらい,君自身よく分かっているだろう!」。B子さんは,「そんな…」と言ったきり,うつむいてしまった。

若手の挑戦意欲を軽視する

 「まったく,テスト準備の大事な時期に何を考えているんだ」。Aさんは,席に戻っても怒りが冷めない様子だった。「いったい,どうしたんです?」。サブリーダーを務めるC江さんが,Aさんに声を掛けた。

 「実は,本社の人材教育部から電話があってね。B子君が来週から2週間,本社でJava研修を受けることになっているというんだよ。おまけに,『B子さんは前回の研修にも申し込んでいましたが,緊急の仕事が入ったと言って直前に取り消しました。今回は,必ず参加させてください』と念を押された。まるで,私が行かせなかったと言わんばかりじゃないか」。C江さんは,黙って聞いていた。Aさんは,「管理部門の連中ときたら,現場の事情を全く分かっていないんだ」と不満を言い続けた。

 ここでC江さんが,口を開いた。「今年2月,B子さんに研修参加をキャンセルさせた時のことを覚えてらっしゃいますか」。

 「あれは確か…」。Aさんは,B子さんが研修受講を願い出た時のことを徐々に思い出した。「プロジェクトが終われば,休む間もなく次の案件にアサインされる。現場で活躍できるのはうれしいが,忙しさにかまけて最新技術に触れる機会を逃していては,そのうちITエンジニアとしての価値が下がってしまう」。これが,B子さんがJava研修を受けたいと言い出した理由だった。

 Aさんは「今時の若者にしては問題意識が高い」と感心し,研修受講を了承した。研修期間は設計と開発フェーズの谷間に当たっていたし,そのころにメンバー増強が予定されていたため,多少の融通が効くはずだという目算もあった。ところが,研修開始直前の2月になって,事情が変わった。他のプロジェクトからエンジニアが合流するのが遅れたのだ。

 「そのうえ,B子君にまで抜けられてはどうにもならなかったんだ。仕方ないだろう」。Aさんは半年前の状況を思い出しながら,目の前のC江さんに言った。C江さんも,「そうですね。緊急事態だからと,B子さんも納得していました」と認めた。「だったらなんで,今また」。声を荒げたAさんに,C江さんが意外な事実を告げた。「それは,Aさんが指示したからですよ」。

部下に教えられる

 C江さんによると,話はこうだった。Aさんは2月の定例会議で,一度は許可していた研修受講を取りやめるようB子さんに言った。だが,Aさんは同時に,「その代わり,8月にある次回の研修は必ず受講できるようにする。開発終了から結合テストまで,ちょうど2週間空くはずだから」とメンバー全員の前で言ったというのだ。

 Aさんはどきりとした。覚えがあったのだ。C江さんはここで,思い切って言った。「少しでもスケジュールを前倒ししたいというAさんのお気持ちは分かりますが,部下の事情や気持ちも察してやってくれませんか」。

 Aさんは一瞬,「君にプロジェクト・マネジメントの何が分かる!」と言いかけた。だが,C江さんの「B子さんは,Aさんを信じて黙々と作業していたんですよ」という指摘に,言葉を飲み込んだ。

 その後しばらく,Aさんは考え込んでしまった。プロジェクトを何が何でも予定通りに進めることしか頭になかったこと,そのためにB子さんの要望をその場しのぎで先延ばししたこと――。自分のこれまでの行動を振り返ると,どれも大人気なく感じた。「ひょっとすると,他のメンバーの意見や希望にも耳を貸していなかったのかもしれない」。Aさんの心に,次第に危機感が広がった。「もしそうなら,チームの士気に影響する」。

 Aさんは,一度決めたらすぐ動く。さっそくその日の午後,B子さんを再び会議室に呼び出した。数時間前に強く叱責されたばかりのB子さんは案の定,固い表情をしていた。

 Aさんはおもむろに,「さっきは,君の話も聞かずに一方的に怒鳴って申し訳なかった」と頭を下げた。そして,B子さんに新たな指示を出した。「それで来週の研修だが,ぜひ行ってきてくれ。結合テストの準備は,他のメンバーで何とかする」。「え,いいんですか?」。B子さんは,思わぬ申し出に目を丸くした。Aさんは大きくうなずいてから,「ただし,戻ったらすぐに結合テストだ。また忙しくなるぞ」と言い添えた。B子さんは「はい。今まで以上にがんばります」と,ようやく顔をほころばせた。

 「粛々とスケジュールをこなすことばかり考えて,部下の信頼とやる気を危うく損ねるところだった」。早足で自席に戻るB子さんの後ろ姿を見ながら,AさんはC江さんに感謝した。

今回の教訓
・部下は「もっと成長したい」という意欲を持っている
・上に立つ者は,とかく周りが見えなくなりやすい
・部下の率直なクレームが,リーダーのマネジメント力を向上させることは多い

岩井 孝夫 クレストコンサルティング
1964年,中央大学商学部卒。コンピュータ・メーカーを経て89年にクレストコンサルティングを設立。現在,代表取締役社長。経営や業務とかい離しない情報システムを構築するためのコンサルティングを担当。takao.iwai@crest-con.co.jp