社内のユーザー部門は時として,開発チームの事情を考慮せず,“待ったなし”で要望を突きつけてくることがある。現場を束ねるリーダーがそれらを片っ端から受け入れていたのでは,メンバーはたまったものではない。ポリシーなきリーダーの下では,部下は育たない。

イラスト 野村 タケオ

 Cさんは,33歳になるITエンジニアである。10年前に,電子機器の中堅商社であるI社に入社して以来,IT推進室で社内のシステム化に携わってきた。2003年9月には,それまでの実績が認められ,開発第1グループのリーダーに昇進。部下を8人率いるようになった。

 そのCさんに,リーダー職の重責を痛感させる出来事が起こったのは,6月中旬の水曜日のこと。午後9時ごろ,帰宅しようとしていたCさんを,K室長が呼び止めた。「ちょっと一杯,付き合わないか?」。Cさんは,「こんな早い時間に帰れるのは久しぶりなのに」と思いながらも,直属の上司であるK室長の誘いを無下に断るわけにはいかず,応じることにした。

 駅前の居酒屋に着くと,K室長が尋ねてきた。「例の開発プロジェクトはオンスケジュールかい?」。例のプロジェクトとは,第1グループが2003年10月から取り組んでいる新・販売管理システム開発のことである。Cさんは慎重に言葉を選びながら,「ええ,メンバーががんばってくれているおかげで,ほぼ予定通りに進んでいます。6月中に総合テストを終えて,7月には移行作業を本格化させます」と答えた。K室長は,C君の説明を聞いて「そうか。第1グループは,厳しい状況の中でよくやってくれている。頭が下がるよ」と言ってうなずいた。

 実は,Cさんの説明とは裏腹に,プロジェクトの進ちょくは決してスムーズではなかった。特に,結合テスト直前の仕様変更が開発スケジュールに深刻な影響を与えた。新システムのユーザーである販売部門が,急な仕様変更を言い出したことが原因だった。中には,はねつけて当然の無茶な要望もあったが,K室長の「なんとか応えてやってくれ」という一声ですべて受け入れざるを得ず,1カ月の開発遅れが発生した。このため,テスト・フェーズに入ってから,メンバー全員が休日返上で作業しなければならなかった。ここにきてようやく,遅れを取り戻しつつあるものの,皆の疲労度は極限に達していた。

 そんな現場の苦労を知ってか知らずか,K室長は「その第1グループを見込んで,折り入って相談がある」と切り出した。Cさんは,嫌な予感がした。

上司の頼みを断れず

 K室長は,「物流部が自動倉庫を増設したことは,君も知っていると思う。それに伴い,部品在庫の出荷依頼や入庫・検品作業を変更することになった。このため,物流システムの一部を手直しする必要が生じている」と続けた。確かに,その話はCさんも知っていた。だが,物流システム修正の件は,IT推進室の下期計画に入っているはずだった。Cさんがそのことを指摘すると,K室長は「それが,物流部が『すぐ対応してくれ』と言ってきた。ぜひ,君のところにお願いできないかな」と,身を乗り出した。

 Cさんは肝をつぶし,「そんなことを言われても,私たちのチームは販売管理システムで手一杯です」と必死に抵抗した。しかし,K室長は動じなかった。「物流部には借りがあるんだよ。去年,現行の物流システムを再構築した時,開発費が予算をオーバーして負担をかけたろう? そのことがあって,申し出を断れなかった」と,涼しい顔をしていた。

 困惑するCさんを見ると,K室長は打って変わってしんみりした口調になった。「C君,これはチャンスなんだ。ユーザー部門からの要求は,単なるわがままに聞こえるかもしれない。だが,それに応えることができれば,我々システム部門に対する社内の評価が上がる。だからC君,ぜひ力を貸して欲しい」。ここまで言われて,Cさんは断れなくなった。つい,「分かりました。何とか考えてみます」と答えてしまった。K室長は「ありがとう」と満足そうに言いながら,Cさんのコップにビールを満たした。

メンバーの不満が爆発

 翌日,Cさんは作業中のメンバーを集めた。テスト作業の合間を縫って,物流システムの変更を進めて欲しいというKさんの意向を伝えるためだ。ところが,Cさんを待っていたのは,メンバーからの総攻撃だった。「これから販売管理システムの総合テストや移行作業に集中しなければならないのに,物流システムの修正なんて,とても手が回りません」,「僕たちに,余力があると思っているんですか?」,「いったい,どういうつもりなんですか!」。

 つかみかからんばかりの勢いで食い下がるメンバーたちの迫力に,Cさんは思わず後ずさりした。「いや,グループが大変な状況にあることは,もちろん分かっているよ。ただ,K室長からのたっての要請だったので,皆の見解を聞いてみようと…」。何とかその場を収めようと苦しい弁明をしたが,これが火に油を注いだ。「だいたいK室長は,ユーザー部門にいい顔をしすぎなんです。尻ぬぐいはいつも僕らじゃないですか」,「今回の開発遅れだって,元はと言えば,K室長がユーザーの無茶な変更依頼を気安く引き受けたせいでしょう? おかげでこっちは,徹夜や休日出勤が続いている。もう,精神的にも体力的にも限界です」。メンバーたちは,口々に不満を述べ立てた。

 「私の立場も考えてくれよ…」。そんな本音が思わず出そうになったCさんの耳に,メンバーの1人が発した言葉が突き刺さった。「Cさんは現場をまとめるリーダーなんですから,ユーザー部門の無理難題をせき止める防波堤になってくれないと困ります。室長の言いなりにならず,『できること』と『できないこと』をきちんと線引きしてください」。

 とりあえず解散した後,Cさんは自席に戻った。頭の中に,「力を貸してくれ」というK室長の顔と,「防波堤になってください」というメンバーの顔が交互に浮かんだ。「どうしたらいいんだ」。胃の辺りが,シクシク痛んだ。

今回の教訓
・上司からの要求とはいえ,安請け合いは禁物である
・システム開発にも,「二兎を追う者は一兎をも得ず」は当てはまる
・新たなことへの挑戦は貴重だが,独断で決めるとメンバーの士気を低下させる

岩井 孝夫 クレストコンサルティング
1964年,中央大学商学部卒。コンピュータ・メーカーを経て89年にクレストコンサルティングを設立。現在,代表取締役社長。経営や業務とかい離しない情報システムを構築するためのコンサルティングを担当。takao.iwai@crest-con.co.jp