高専のプログラミングコンテスト(通称プロコン*1)に,筆者が4年間にわたって挑戦してきた取り組みを紹介するこの連載,今回で2回目です。前回は,2002年当時「落ちこぼれパソコン部」だった筆者らが,ドタバタと混乱のなか,初めてプロコンに挑戦して最優秀賞・文部科学大臣賞を受賞する様子を紹介しました。今回は,全国優勝を手に地元に戻った筆者たちが経験した挫折と,リベンジへの道を紹介したいと思います。

全国優勝の波紋

 だれ一人として予想していなかったプロコンでの津山高専*2の優勝,この結果に一番驚いたのは,ほかならぬ津山高専自身でした。学校へ戻ってみると,そこはお祭り騒ぎ。寮のみんなは,プロコンから帰った筆者たちを暖かく迎えてくれました。帰宅した日の夜,テレビの全国ニュースでプロコンが紹介されると聞くと,たちまち寮に住む10人以上の友人が狭い2人部屋に集まり,大鑑賞会を開く始末。

 次の日は校長先生に呼び出されて報告会です。ちょうど全国の大学が民営化される,されないなどの話が出ているころだったからか,校長先生は「これでうちの学校はつぶれません! ありがとう!」と,感激しています。そうこうしていると,地方新聞の記者さんがこぞって取材に訪ねてきました。メンバー全員,新聞に出たことなど一度もなかったため,「俺らが新聞に出ているよ…」と驚いたり,感動したりしたのを覚えています*3

成果をもとにリソースを増やす

 この全国優勝を皮切りに,シス研*4の若手部員たちは勢いを増していきました。先輩から部の運営権を譲り受け,筆者はシス研の部長に就任します。部長になった筆者が最初に取り組んだのは,部活動予算の増額でした。津山高専の部活動は学生による自治運営で,各部の予算は年度初めの部長会議の場で決めます。筆者はぜひ部の予算を増やしたいと思っていました。

 というのも,当時のプロコンに参加する学生の間では,専用デバイスやプロジェクタを使った「目で見て楽しい」「手にとって触れる」展示をしてアピールすることが,勝負のポイントの一つと考えられていたからです。ハードウエアを作るにはお金がいります。また,ハードとソフトの連携したシステム開発に憧れる気持ちもありました。

 とはいえ,限られた予算を各部で取り合うわけですから,どこの部も必死です。しかも,当時の津山高専では,運動部にくらべて文化部はなぜか冷遇されていました。さらに,筆者が出席する部長会議に参加するのは全員,上級生。それはそれは恐ろしい気持ちでしたが,前年度の成果をカードに精一杯,プロコン活動における予算の必要性を訴えました。

 幸いなことに筆者たちの主張は認められ,シス研の予算を昨年度の年間1万5000円から,12万円へ増やすことができました。この知らせに部員全員大喜び。これでハードウエアにも手を出すことができます。

 お金の問題が片づいたら,今度は人です。映像編集の趣味を生かして,シス研のプロモーション・ビデオを作り,20人を超える新入部員を確保しました。スキルの差はあっても,人数はそのまま開発力に効くはずです。こうしてプロコンに集中して取り組むことができる環境作りを進めていきました。

2年目の舞台へ

 そして2003年,準備が整ったと感じた筆者は,2回目のプロコンに向けて動き出します。筆者らが設定したこの年のテーマは「つながる情報家電」。当時はWindows XPのMedia Center Editionの開発がアナウンスされるなど,パソコンとAV機器を合わせたような製品が続々と登場していた時代でした。筆者も,近い未来はこのような方向に進むのかなぁ…と感じていました。そこで筆者なりの「情報家電の一歩先」を提案してみようと考えました。

 まとまった企画は以下のようなものです。(1)ユーザーが気になるカテゴリをあらかじめ登録しておけば,システムがインターネットをめぐってニュース・サイトから全自動で情報を収集してくれる,(2)収集した情報を自動的に映像化して,自分専用のニュース番組を放送してくれる,(3)視聴者の意見を相互に交換し,その意見から副次的なニュースを生成して再帰的に放送する機能も盛り込む――というシステムです。そのころはGoogleニュース*5もありませんでしたし,RSSやブログも流行っていなかったので,当時の筆者としてはかなり自信があるものでした。

 システムは「ONDECAST(オンデキャスト)」と名づけました(図1)。インターネットなどのオンデマンドな情報発信と,テレビやラジオなどのブロードキャスト的な情報配信の融合だと考えたからです。「これが完成すれば最優秀賞間違いなしじゃな!」メンバーはみんな自信満々。予選も無事に通過し,あとは気合いを入れて実装するだけです。

図1●ONDECASTの動作画面ときょう体
図1●ONDECASTの動作画面ときょう体

「用意した答え」の間違い

 ところがどっこい,プロコンの予選の結果が発表されると,すぐに夏休みがやってきます。夏休みといえば恒例の夏合宿*6。昨年の反省はどこへやら,今年も夜を徹して遊びまくりです。「そういえばプロコン大丈夫なんか?」「まぁ昨年どうにかなったし,大丈夫大丈夫~」――このままでは去年より大変なことになるのは火を見るより明らかです。

 夏休みを遊びほうけて,本番まで残り2週間というところでようやく開発にとりかかりました。今回のONDECASTの開発は作業の量も技術的な難易度も,前作KBT*7をはるかに超える壮大なものでした。ニュース・サイトの巡回と情報収集といっても,現在のように各サイトでヘッドラインがRSSで配信されているわけではありません。サイトごとに人海戦術的にテンプレートを作成し,構文を解析します。このコーディング量は半端ではありませんでした。「さっき新聞社のサイト見てみたらリニューアル・オープンしてやがる! テンプレート全部作り直しじゃ!」開発を担当したUNIXマニアな友人はひどい混乱状態でした。

 また今回は,パソコンの画面をUHFの電波に乗せて家庭のTVに伝送する,専用のデバイスも開発します。デバイスには専用の赤外線リモコンも搭載する予定です。これらを実現するには,これまでのようなWindows上のアプリケーションの開発だけでなく,ケースの金属加工,電子回路の製作,PIC*8でのプログラミングをする必要があります。

 こうした開発規模の増大に対処するために筆者が用意した答えは,大量の人員と予算でした。しかしこれは,大きな間違いでした。1年目のプロコンで本当に問題だったのは,少ない開発予算でも,少ない人員でもありませんでした。現実的にかつ安全に設計されたスケジュールのなかで,メンバー全員が同じゴールを見つめ,協調して一つのものを作り上げる――そう,集団でモノを開発する体制,プロジェクト管理そのものだったのです。

 この体制がないところに,許容できる仕事量を超えた負荷をかけるわけですから,プロジェクトは日々崩壊していきます。メンバー間のコミュニケーションはうまくいかず,アイデアを共有することすらできません。うまくいかない現状にイライラしてきた筆者は「もういい! 手が足りていないところは俺が全部やる!」と叫び,企画,設計,プログラミング,ビジュアル・デザイン…と,とうてい一人でこなせるわけがない作業量を抱え込んでいきました。

壊れたプロジェクトを走らせて

 こうなると手が付けられません。周りが手助けしようにも,なにを手伝えばいいのか話し合うことすらできない状態です。津山高専の集団開発体制は,完全に崩壊してしまいました。「きちんと動くものを作れば次も全国優勝だ!」という希望だけを頼りに,長く苦しい開発を続けました。

 プロコン本戦の日はすぐにやってきました。2003年の第14回大会は東京都八王子市での開催です。無謀な開発体制とスケジュールにもかかわらず,連日の不眠不休の作業で,筆者たちは動作するシステムをなんとか作り上げることに成功しました。

 完成した作品は会心の出来。本当に苦しい開発でしたが,メンバー全員が自信を持って出展できるものに仕上げることができました。しかし,開発にリソースを割きすぎた筆者は,プレゼンテーションの準備やポスター,ブース制作などの,プログラム本体を作る以外の部分に全く手をつけることができませんでした。

 前回,「すべてが審査対象」と説明したプロコンですが,当時の筆者には「自分たちの作ったものを,きちんと人に伝える」ということの意味や大切さを,理解できていなかったのです。練習もロクにしていないむちゃくちゃなプレゼン,ポスターによる説明すら置いていない展示ブース,作品を見る側にとっては,これがなにをするシステムなのか,まったく理解できません。

 それでもなお,プログラムの出来に自信のある筆者たちは,声に出さないながらも「今年も自分たちが最優秀賞だ!」と信じて疑いを持ちませんでした。

「残念賞だったね」

 大会でのプレゼンと展示が終わり,閉会式で受賞校の表彰が始まりました。作品に自信があるとはいえ,やはり表彰式は不安でドキドキします。うまくプレゼンできなかったという不安要素もあります。ですが,その表情は昨年にくらべ,かなり期待に満ちていたように思います。

 「それではまず,審査員特別賞の発表です…」と発表が始まりました。審査員特別賞は上から3番目の賞で,4校の受賞枠があります。出場者はこの読み上げの瞬間から緊張し始め,その緊張は最優秀賞発表時にピークに達します。筆者の脈拍もじょじょに上がり始めました。と,次の瞬間,「審査員特別賞は,津山高専…」一瞬,筆者には何が起こったのかよくわかりませんでした。

 一緒に壇上に上がっていた後輩も,きつねにつままれたような表情をしています。あれほど死に物狂いで仕上げた自信作です。「呼ばれるのはそこじゃないよね?」メンバーのだれもが,同じことを思っていました。表彰式を終えた筆者らは,観客席にいたメンバーや先生と合流します。先生は「お疲れさま。とりあえず,おめでとう」と暖かく声をかけてくれました。メンバーはだれも,何も答えませんでした。

 会場を去るときに,一人の審査員の先生に呼び止められました。「君たちの作品の完成度は間違いなく一番だった。これがなにを意味するか,考えてほしい」。ホテルに着くと,とりあえず各自解散することになりました。そのとき,「今回は残念賞だったね」とメンバーの一人が話しました。この「残念賞」という言葉は,メンバー全員が抱いていた憤りや,悔しさや,そういった言葉にできない思いを,ぴったり表現していました。私はあふれ出る涙を抑えられなくなり,トイレに駆け込んで一人で泣きました。

 このとき,自分の犯してしまったおろかな失敗に,初めて気づきました。前回のプロコンで学んだ,本当に大切なものは,開発規模や投入予算なんかじゃなかったのです。大切なものは,メンバー全員が助け合うこと。おごりを持たず,自分たちの作った作品を,一生懸命相手に伝える姿勢を持つこと。そして,作品は自分たちだけじゃなく,使ってくれる人々を含めて,みんなで作り上げるものだということ。筆者はこれらを身に刻みながら,悔し涙を流し続けました。