図1 2006年度の世界市場における携帯電話メーカーのシェア ガートナー調べ。ソニーとエリクソンの合弁企業であるソニー・エリクソンが躍進しているものの,“純”日本メーカーのシェアは非常に小さい
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 最近,世界的に見れば日本の携帯電話メーカーの凋落(ちょうらく)が著しい(図1)。

 携帯電話はユビキタス時代の中核機器である。日本メーカーの国際競争力低下は他の国内産業にも大きな影響を及ぼす可能性が高い。総務省もこのまま放置してはいけないと重い腰を上げて議論を始めたが,混沌(こんとん)を極めているのが現状だ。一体,日本の携帯端末産業には何があったのか。今回から始める連載で,日本メーカーの国際競争力低下の真因を探ってみたい。

 その前に,筆者と携帯電話産業との関わりについて,少しだけ説明させていただきたい。筆者は1995年から大学で通信工学の研究を始めた。当時,国内の通信業界ではNTTドコモを中心に,第3世代(3G)の移動体通信技術,後に世界標準となった「W-CDMA」の研究開発が進められていた。W-CDMAの実現は,日本企業の存在を抜きには語れないほどだった。90年代は日本からたくさんの学術論文や研究成果が世界の通信技術の研究分野に寄せられ,この分野における日本の高い技術力を世界に示していた。

W-CDMAで世界を席巻すると言われていたが・・・

 1998年,筆者はある国内大手通信機器メーカーにエンジニアとして入社した。そして,W-CDMA基地局の開発に従事しながら,W-CDMAの標準化プロジェクト「3GPP」(3rd Generation Partnership Project)で3G及び次世代移動体通信規格の標準化活動に携わるようになった。筆者が入ったメーカーはNTTドコモの基地局と携帯電話端末を開発していた。基地局と端末の開発において,日本では当時から通信事業者(キャリア)を中心とする極めて垂直統合的な産業構造ができあがっていた。他のメーカーと同様,筆者の属するメーカーの開発部門は,NTTドコモの要求に応え,携帯電話の新機能,新サービスを実現するために全力を傾けていた。現場のエンジニアはとても勤勉でまじめである。メーカーの現場から,日本の携帯電話メーカーが高い技術力と優秀な人材を備えていることを実感できた。

 2001年,日本の携帯電話業界は明るいムードに包まれていた。2001年10月,NTTドコモが世界で初めてW-CDMAの商用サービス「FOMA」を開始したからであった。移動体通信の分野で,日本はそれまで「鎖国時代」と呼ばれていた。第2世代のPDC(Personal Digital Cellular)方式は周波数利用効率など,技術面では世界のデファクト・スタンダードであるGSM(Global System for Mobile Communications)方式に決して劣ることはなかった。だが,PDCは日本だけの方式で終わってしまい,ある意味で日本の携帯電話産業は屈辱を味わっていた。W-CDMAサービスの開始により,ようやく日本でも世界で通用する規格が使われるようになった。しかも,それは「日本発」の規格と言われていた。日本が世界市場に先行し,日本メーカーは先行優位性を生かして,これから世界を制覇するのではないかと期待された。

3GPPで存在感低い日本企業

 一方,当時通信規格の標準化に携わっていた筆者は,その頃から日本の携帯電話メーカーの国際競争力について疑問を持ち始めていた。高い技術力を持ちながらも,それを十分に生かせていないのではないかと感じ始めたのである。

 筆者が参加していた3GPPというプロジェクトは,世界中の携帯電話メーカーやキャリアが一堂に会して,議論と交渉を行う場である。通信分野では,企業間の競争は製品が市場に出回る前,規格作りの段階からすでに始まっている。そういう意味では,標準化プロジェクトにおける各企業間の競争は,市場での競争の前哨戦である。各企業は自社技術を標準規格に取り入れてもらうために必死となっているはずである。当初筆者は,W-CDMAは日本発の規格であるから,3GPPの議論の場でも日本企業の発言が大半だろうと思っていた。

 しかし予想に反して,日本企業,特に日本の携帯電話メーカーの存在感は3GPPの中では極めて小さいものだった。日本企業から寄書(規格の提案などの文書)は少なく,議論の中でも積極的に発言したがらない。世界の標準化プロジェクトの活動から見えてきたのは,高い技術力を有しながらも欧米企業に主導権を握られ,言いなりになっている日本企業の現実だった。

 実際のところ,現在の3G規格では日本企業よりも欧米企業が圧倒的に多くの関連特許を握っている。W-CDMA技術は日本発と言われたものの,無線インタフェース以外の部分では日本企業は大幅な譲歩を余儀なくされていた。

技術は万能にあらず。韓国メーカーに追い越される

 その後,筆者は韓国企業の躍進を目にした。3GPPがスタートした1998年当初,韓国企業はまったく目立たない存在であった。しかし,その5年後の2003年頃には,標準化活動の中で韓国企業の存在感が急拡大し,提出される寄書数と議論への寄与度の両面で日本企業を凌駕(りょうが)し始めた。韓国企業はいつの間にか,欧米メジャー企業と交渉のテーブルで対等に議論できるほどの大人に成長していた。それに対し,日本の携帯電話メーカーは,まるで成長が止まったままの幼子のようであった。筆者は標準化組織の活動の中で,海外で存在感を示せない日本メーカーの閉塞感を味わった。

 この経験から,技術が万能ではないことを強く感じた筆者は,一旦,開発現場を離れて経営大学院に入り,それまでとは違う目線で日本の携帯電話産業を眺めることにした。ちょうど同じ頃,市場ではまさに筆者が標準化活動で見てきたのと同じ映像が映し出されていた。それは日本の携帯電話メーカーが世界市場の競争に立ち向かうことができず,欧米企業に主導権を握られ,韓国企業に追い越されているという現状である。現在,日本メーカー・トップ企業の年間出荷台数は,世界シェア1位であるノキアの3%にも満たない。

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 昨今,携帯電話は家電分野最大の市場にまで成長している。そして,ユビキタス社会では,携帯電話が中核製品として位置付けられている。この分野における日本メーカーの国際競争力の低下は,無視できない問題だ。

 日本政府もこの問題を認識しており,2006年から経済産業省や総務省は頻繁に「携帯電話機産業の将来のあり方に関する有識者懇談会」や「モバイルビジネス研究会」といったさまざまな研究会を開き,議論を始めた。しかし筆者には,これらの研究会は日本メーカーの国際競争力低下を招いた決定的な要因を突き詰めず,いきなり解決策を論じようとしているように見える。

 経営学では,「企業の国際競争力の源泉は本国市場での競争から得られる」と言われている。例外は多々あるが,国内市場での厳しい競争環境の中で,企業は生き残るためにイノベーションを生み続け,それが産業全体の国際競争力向上につながってゆく(この辺りの議論はマイケル・ポーター ハーバードビジネススクール教授の著書「競争戦略論II」に詳しい)。日本の自動車や家電メーカーの高い国際競争力はその典型だ。

 筆者はまず,国内携帯電話市場の競争が,日本メーカーの国際競争力にどのように影響しているかについて焦点を当てることにした。その後,さまざまな角度から携帯電話産業を分析し,日本メーカーの国際競争力低下を招いた要因を浮き彫りにしたい。

 残念ながら,日本の携帯電話産業はこのまま放置すると衰退してゆくのは目に見えている。そして何よりも,現場で働くエンジニアの流した汗が無駄になる事態は避けたい。メーカーや政府,キャリアなどが一心同体で日本の携帯電話産業の競争力を蘇らせるよう取り組んで欲しいと願っている。本連載がささやかな提言となれば幸いである。

筆者紹介:王亭亭(Wang Tingting)
1991年に来日。1996年,京都大学工学部電気工学科卒業。1998年,京都大学大学院工学研究科電子通信専攻修士課程修了後,国内大手通信機器メーカーに入社。NTTドコモ向けW-CDMA基地局開発,3GPPにおける第3世代移動体通信規格の標準化活動に携わる。その間,通信技術に関する数個の特許を取得。2005年4月,一橋大学商学研究科MBAコースに入学。2007年3月に修了し,現在は一橋大学イノベーション研究センターでリサーチ・アシスタントを務める。