民法や著作権法,特許法など,ITエンジニアが知っておくべき法律は多い。こうした法律を知らずに仕事を進めてしまうと,思わぬ落とし穴にはまってしまう危険性がある。この連載では,すべてのITエンジニアが知っておくべき法律知識について解説していく。

広島市のあるユーザーが,神奈川県にある大手ソフト会社と基幹業務システムの開発請負契約を結んだ。ユーザー側は「コンピュータ仕様書」と題する書面をソフト会社に渡して,販売/財務/車両管理システムの開発を委託したが,この仕様書は,システム化の範囲や内容を明示したものとは言えなかった。ソフト会社はこの仕様書を基にシステムを開発したため,出来上がったシステムは両者が合意していた目的や機能を達成していない不完全なものになってしまった。そこで,ユーザーはこのソフト会社を相手取り,4846万円の損害賠償を求めて提訴。裁判所は,「ユーザーが作成した仕様書が不完全なことが常識的に分かる場合,ベンダー側は,専門技術的な視点で必要と思われる事項を提案,指摘してユーザーをサポートする義務があるが,ソフト会社はこの義務を怠った」と判断し,この行為は「債務不履行に当たる」として,ソフト会社に409万円の損害賠償を命じた。(広島地裁1999年10月27日判決,判例時報1699号101ページ)

 この判例を読んで,読者はどう感じられるだろうか。「いいかげんな仕様書で発注したユーザーが悪い」,「誠意がないベンダーが悪い」。いろいろな意見があるだろうが,肝心なのは,ベンダー側が民法の「信義誠実の原則」(1条2項)などの法律を理解した上で,ユーザーとベンダー双方の役割分担や協力義務を明記した契約書を作成し,ベンダーとして行うべきことをきちんと実行していれば,こうしたトラブルは起こらなかった,ということだ。

 我々が生きているのは契約社会である。会社間の取引は「契約」となって初めて「法律の保護」を受ける。

 契約とは「裁判所から,遵守しない相手に対し損害賠償または履行を命じてもらえる約束」のことだ。しかし,契約書に書かれたことに実効性を持たせるためには,技術や取引についての理解だけではなく,契約に関する法律の理解が必要になる。

 例えば,法律には「強行規定」と「任意規定」の2種類がある(図1)。強行規定とは,「公の秩序に関する規定」のことであり,これに違反する契約条項は無効となる。一方,任意規定は契約のあいまいな点や足りない点を補充するための規定。明確な契約条項があれば,法律と異なっていても,契約条項の方が有効となる。

 契約を行う場合は,こうした法的な背景を理解した上で,取引の実情に合わせた「明確かつ有効な契約書」を作成しなければならない。

図1●強行規定と任意規定。
図1●強行規定と任意規定。
このように法律の規定には2種類ある

請負と委任の違い

 ソフト開発委託における契約は,「申込」と「承諾」というユーザー,ベンダー双方の意思が合致することにより成立する。これはどんな契約でも同じだ。

 ベンダー選定時にシステムの仕様が確定している場合には,ベンダーは開発スケジュールや金額などの明確な契約条件を提案できる。このため,提案書がそのまま契約内容となることもある。しかし,ほとんどのソフト開発委託では,提案書だけで契約が成立することはない。提案書の内容には,不確定な要素や前提条件が多く,開発仕様などの契約内容を確定できるほど契約交渉が煮詰まっていないからである。このため,提案書とは別に契約書の締結を行うのが一般的だ。

 契約書を作成するにあたって,まず理解しておくべきことは「請負」と「委任」という概念である。請負とは,「請負人がある仕事の完成を約束し,注文主が報酬の支払いを約束する契約」であり,委任とは「委任者が業務(役務あるいはサービス)を受任者に委託する契約」だ(図2)。

図2●民法における請負と委任の規定
図2●民法における請負と委任の規定

 請負の場合は「仕事を完成させる義務」があり,仕事を完成させなければ報酬は受け取れない。これに対して,委任の場合は「受任者は善良な管理者の注意をもって委任された作業を行う義務」を負うが,仕事を完成させる義務はない。瑕疵担保責任を負うこともない。こうした法律上の概念の正確な理解にもとづき,請負型にするか,委任型にするかを決める必要がある。

 次に考えるべきことは,システム化の方針・計画の策定,要件定義,システム設計,コーディングと進む開発工程のうち,要件定義までは委任型にすることだ。ユーザーの責任を明確にすることが,紛争を防止するからである。

 なお民法の請負,委任の規定は,任意規定なので,民法と異なる取り決めも,有効だ。例えば,「仕事の完成は約束しても瑕疵の修補は努力義務とする」という取り決めは請負と委任の中間型あるいは混合型の契約として立派に成立する。

 実際に契約書に記載する内容は,のガイドラインが参考になる。

表●契約に記載すべき事項のガイドラインの例
名称 作成者/
作成時期
主な内容
「情報システム信頼性向上のための取引慣行・契約に関する研究会」最終報告書 ~情報システム・モデル取引・契約書~ 経済産業省
(2007年4月)
情報システム開発におけるユーザーとベンダーの役割分担,責任関係を明確にするため,契約プロセスと契約書のモデルを提唱
役務の委託取引における優越的地位の濫用に関する独占禁止法上の指針 公正取引委員会
(1998年3月)
仕様の明確化,仕様変更のときの費用負担の明確化
ソフトウェア開発モデル契約書 日本電子工業
振興協会
(1994年7月)
基本契約と個別契約。契約を要件定義・設計サービス,構築サービス,運用準備・移行サービスの3つに分けることを推奨
JISAソフトウェア開発委託契約書 情報サービス
産業協会
(1994年12月)
ソフトウエアの委託開発のモデル契約書

辛島 睦 弁護士
1939年生まれ。61年東京大学法学部卒業。65年弁護士登録。74年から日本アイ・ビー・エムで社内弁護士として勤務。94年から99年まで同社法務・知的所有権担当取締役。現在は森・濱田松本法律事務所に所属。法とコンピュータ学会理事