居酒屋で偶然出会った第一営業部の鯨井部長と鮫島部長代理。坊津君と猫柳君は、鮫島代理の嫌味に耐えながら、鯨井部長から顧客の業界研究という “営業の秘策”を聞き出します。急ぎオフィスへ戻った2人は徹夜で資料を作り、意気揚々と提案先の平成スタッフに向かいますが、結果は惨敗。「出直してよ」の言葉に打ちひしがれる2人ですが・・・。


「おいおい、どうしたんだ。がっくり来ちゃって」
オフィスに帰ってきた坊津君と猫柳君に、内藤主任が声をかけました。

「聞いてくださいよー」猫柳君がイスをずるずる動かして、内藤主任ににじり寄りました。
「鯨井部長って、なんなんですか?」
「あ、あのIBW出身の人ね」
「顧客とのリレーションには、業界研究だって言うから…」
 猫柳君は内藤主任に今日の折衝を説明しました。

「うーん。で、業界研究ってどうやったの? だれか業界に友だちでもいたのか」
「とりあえず本で調べました」
「おれはネットで」坊津君も割り込んできました。
「あのね。そういう情報ってね、リクルート用っていうかな。学生向けの情報だね」
「え?」「なんですと?」ショックを受ける2人。
「そういう素人向けの情報で、お客さんのことを分かったような説明しちゃたんでしょ? そりゃ途中で退席されちゃうよ」
「むぐぐぐぐ」2人は言葉もありません。
「だいたい鯨井部長って営業経験ないよ」
「えっ?」「マジですか?」
「うん。確かSE出身だよ。部下の手前、聞いたふうな話をしたんじゃないの? ま、ウチの創部にも反対していた人たちだしね」
「だからって嘘言わなくてもいいじゃないですか」猫柳くんはもう涙ぐんでます。
「嘘をつくつもりじゃないんだろうけどね。とにかく、早く中田課長に相談しなよ」
「あああっ! 課長は明日まで出張です」猫柳君が天を仰ぎました。

「そりゃ困ったなあ…。でも、その2人が言ったSE的な話でいけ、とういうのは本当かもね。僕はいつもその辺でお客さんの信頼を得ているような気がする。君たちもそれで行ったらどうだ。今回の提案範囲は?」
「派遣社員の就業管理、人事管理、給与管理といった人事系システムと財務システムです」と坊津君。
「じゃあ、僕の得意な範囲だから同行してあげようか」
「ちょっと待ってください。課長にああ言った手前、僕たちでなんとかしたいんです。課長も、営業はできるだけSEに頼るなっておっしゃっていますからね」と坊津君は力みます。
「あ、そういうのいいね。カッコイイよ」

 内藤主任はSE出身で冷たくも見えるんだけど、案外に熱いところがあるんだなあ、と猫柳君は思いました。

「ま、僕はもうSEじゃないから頼ってもらってもいいんだけど。気持ちは分かる。よし、自分たちでやってごらんよ。アドバイスはするよ」
「ありがとうございます。さっそく徹夜に備えて歯ブラシを買いに行きます」これはもう内藤主任の力を借りるしかない、と思った猫柳君でした。
「ちょっと待て。お前ら昨日も泊まりじゃないのか?」
「内藤主任も、バッチリ付き合ってもらいますよ。夜食のご希望があれば携帯に電話ください」と言い残し、猫柳君はさっさとコンビニに行ってしまいました。

(イラスト:尾形まどか)

「というわけで最新のテクノロジーを活用したソリューションのご提案の方向をご説明させていただきました。お手元の資料をご覧いただきまして、何かご質問がありましたら、承りますが…」
 といいながら猫柳君は『質問、来ないでー、来ないでー』と祈っていました。もちろん坊津君もイッパイイッパイです。資料の中身で意味の分かる話なんてほとんどありません。2人の知識のなさにあきれた内藤主任が資料の3分の2を作ってくれたのですから。

「では、うかがいましょう」平成スタッフの情報システム部長が切り出しました。

「もう! 本当、頼りにならないんですから、坊津さん!」 泣きながら怒る猫柳君。
「うるせえ、お前だってどうなんだよっ!」坊津君は逆ギレです。
「どうしてさっぱり質問に答えられないんですか?」
「お前が質問はありますかなんて聞くからだろっ!」
「だってそりゃ聞きますよ、あんた無茶苦茶だよー、うえーん」

 そんな2人がオフィスに帰ってたのは夕刻でした。泣いている猫柳君はもちろん、坊津君も寝不足で目が真っ赤です。「やっぱり無理だったか」と内藤主任はあくまでも冷静です。

「付け焼刃っていうんですかね、大恥です。穴があったら入りたかったっすよ。自分は」と坊津君。
「2日続けて、お客さんの時間を無駄にしてしまったね。やっぱり付いて行けばよかったのかなあ。課長が帰ってきたら大目玉だ。僕も一緒に怒られるよ。早く怒られてアドバイスをもらおう」
 内藤主任が肩を落としているそのときでした。

「ただいま。ああ、疲れたよ」
 中田課長が桜井君を連れ、2人で大きなカバンを持って出張から帰ってきました。3人が駆け寄り、この2日間の経緯を話すと、出張用のバッグを肩にかけたまま聞いていた中田課長はこう言いました。

「そうか、よくやった」
「えっ?」キョトンとする3人。
「それでいいんだ」笑いながら課長は言います。
「どこがいいんですか?さっぱり分かりません。多分、お客さん怒ってますよ」そう言う内藤主任を制して、中田課長が坊津君に向かって言いました。
「お前たちは何をしに行ったんだ?」
「顧客とのリレーションを構築しに行ったんです…よ」と自信なさげに坊津君。
「1回目は何をしに行った?」
「コンサルティング営業…のマネ事です…」
「で、どうなった?」
「そんなことは要求してないって怒られました」
「ふふっ。いいじゃないか。で、2回目の今日は何をしに行ったんだ?」
「我が社の技術力を分かってもらいに行きました」
「で、どうなった?」
「君たちは業務もコンピュータのことも、あんまり知らないようだねって笑われました」
「ばっちりだ。あはは。それでいい。さて荷物を解きたい。10分後に奥の打ち合わせコーナーに集合。猫柳、コーヒーを持ってきてくれ」

「いいか、リレーションとは橋だ。太い橋がかかれば、たくさんのものが往来できる」
 そう言って課長はホワイトボードに大きな橋の絵を描きました。
「でも、いきなりそんな橋はかからない。1本のロープから始めるんだ。ロープを投げて木にくくりつける。それには何が必要だ?」
「ロープです」と猫柳君。
「バカ違うだろう。向こう岸に人がいないとダメだろ」と坊津君。
「そうだ。お前たちはヤッホーって声をかけた。返事をしてくれた人がいただろう」
「???」
「『君たちにはそんなことを期待していない』って言ってくれた人だ。『君たちを呼んだ僕の立場がない』って言った人だ。その人たちがロープをつかんでくれた」
 まだ2人はピンときてないようです。
「2回目。今日はQ&Aが散々だったんだろ? その後、何かなかったか? あったはずだ」
「そうだ…ありました」と思い出す猫柳君。

「担当の人が『懲りないでまたおいで』って言ってくれました」「部長さんも妙に優しかったです」「僕たちは質問に答えられなかったことばかり気にしてましたが、笑われたけど昨日よりずっと雰囲気が良かった」と猫柳君と坊津君が話し出しました。
「それでいいんだ。お前たちはロープを伝って向こう岸に行けたわけだ」
「ちょっと待ってください。どうして2日続けて失敗したのに…」いぶかしげな内藤主任です。

「彼らの目を見ろ。真っ赤だろ。2日間の資料を見れば平成スタッフのためだけに、2人が作ったのがよく分かる。この2人の能力では徹夜しないと作れないことも分かるはずだ。お客さんは、こいつらの真心を感じたんだよ。業界のことなんてお客さん以上に詳しくなれるわけがない。システムの知識ならSEを呼んでくればいい。こいつらは誠意を示した。それが担当の方の心を動かした。そういうことだ」

 3人の顔がパッと明るくなりました。

「じゃ…。なんとか、なりますか?」
「そうだ。あとは会社の力だ。内藤主任、本格的に提案の方向を考えよう」「はい、頑張りましょう!」
「よかった。受注ですよ。坊津さん!」
「バカまだ早いよ」(次回に続く

今号のポイント:営業は橋をかけるようなもの

 新規顧客の開拓というのは、行ったことのない川の対岸に橋をかけるようなものだ。対岸にロープを投げる。すると、対岸の顧客がロープを木にくくりつけてくれる。それを伝い、少しずつ様々なものがやり取りされ、橋は強固に幅広くなっていく。最終的な形として、二階建ての橋をイメージしてほしい。上段は情報の橋。業務要件や技術情報がやり取りされる。下段は心の橋で、顧客の本音と我々の誠意が交換される。あなたと顧客を結ぶ橋は細いか、太いか?えっ、先週の大雨で流されたって。そりゃお気の毒!

油野 達也
自らもトップ営業として活躍しながら、自社の営業担当者だけでなくパートナー企業の若手営業、SE転身組を長期にわたり預かる育成プログラムに尽力。ITコーディネータのインストラクター経験もあり。