インターネットの匿名性が,IT先進諸国で再検討を迫られている。韓国では今年1,2月に連続して起きた女性タレントの自殺と,これを招いたとされるWebサイト上の激しい誹謗中傷が,匿名性に対する国民の問題意識を喚起した。また,それ以前から法制化が図られ,今年7月に開始予定の「インターネット実名制(本人確認制)」への追い風ともなっている(前編からの続き)。

 一方,米国では,インターネット上のフリー百科事典「Wikipedia」が,上級編集者の「肩書き詐称」事件に揺れている。匿名による書き込み・編集を基本とするWikipediaには,以前から情報の信頼性に対し疑問が投げかけられることがあった。この3月に発覚した詐称事件とほぼ同時期に,かつてのWikipedia共同創設者の一人が,実名登録を必要とする新たなネット百科事典プロジェクトを立ち上げるなど,匿名性に対抗する動きが生まれつつある。

 そして日本では,匿名文化の象徴であるネット掲示板「2ちゃんねる」への風当たりが強まっている。サイト管理人の西村博之氏に対し,名誉棄損など全国で起こされた訴訟は50件以上にも及び,その大半で同氏の敗訴が確定している。西村氏が裁判の多くを欠席し,賠償金や制裁金の支払い命令を無視していることも相まって,同氏と「2ちゃんねる」への反感はかつてないほど高まっている。

 上記事件の多様性と共に,匿名性に対する各国の姿勢や取り組みの相違は特筆に価する。以下,それらを比較することで,この問題の本質に迫ってみる。

韓国のインターネット本人確認制

 韓国では,昨年末に議会で「制限的インターネット本人確認制」が成立する前から,多くのポータル・サイトが住民登録番号を利用したユーザーの本人確認制を導入している。にもかかわらず,ネット上での誹謗中傷を抑制できていない。これはなぜだろうか。また,そもそも韓国の住民登録番号とは一体どのようなものなのか。前回も登場していただいた,韓国在住で同国のIT事情に精通している竹井弘樹氏は次のように説明する。

 「韓国で住民登録番号が使われ始めたのは1960年代のことです。当時は(北朝鮮からの)スパイを防止する目的で導入されました。一種の背番号制のようなもので,導入してみると非常に便利なことが分かったので,市役所のような政府機関だけでなく,病院や企業社会などにも,どんどん広がっていきました。例えば病院で保険証を忘れても,自分の住民登録番号を見せれば,無事に診療を受けることができます。住民登録番号を参照すれば,その人の履歴や個人情報が即座に表示されるので,何をするにも便利なのです。逆にこれを持たないと,とても不便です。私のような外国人には外国人登録番号が与えられますが,大抵のポータル・サイトは住民登録番号の入力を要求するので,外国人はメンバーになれません」。

 この話を聞くと,韓国の住民登録番号は米国の社会保障番号(Social Security Number:SSN)と似た側面を持つことが分かる。

 米国でSSNが導入されたのは,大恐慌の最中の1936年のこと。当時の目的は貧困に苦しむ国民に,生活援助を間違いなく支給するための管理番号だった。その後,SSNは人々の納税や銀行口座の開設,運転免許証の申請,さらにはクレジットカードの取得など,日常生活の様々な用途に使われるようになった。SSNは事実上,米国民と米国定住者を一元的に管理するIDへと昇格したのである。そこには,あらゆる個人情報・履歴が蓄積されていくので,SSNを盗まれれば,「なりすまし」などの犯罪に巻き込まれる危険性が高まる。また実際そうした事件が頻発している。つまり致命的な弱点を抱えていることも承知しておく必要がある。

 このように韓国や米国では,非常に便利な半面,危険でもある住民番号制が普及した。両国とも,プライバシーや個人情報に関する危機意識が今ほど高まっていない時代に導入されたから,スムーズに受け入れられ,社会全体に広がった。21世紀に入ってから住民基本台帳ネットワークシステム(いわゆる住基ネット)を導入し,激しい反発にあった日本とは大分事情が異なっている。

ネット・ベンチャーが住民登録番号を積極活用

 韓国ではやがて,住民登録番号がインターネット上での本人確認にも使われるようになった。そこに至る経緯を竹井氏は次のように語る。

 「90年代後半のインターネット・ブームの頃,韓国のネット・ベンチャーが発展していく段階で,まず投資を受ける必要がありました。その審査基準として,サイトの規模,つまり会員数が注目されたのです。そこで各サイトを運営するベンチャー企業は,競って会員を集めました。その際,完全に匿名での会員登録を許せば,景品や特典を貰うために,一人で何人にもなりすまして登録するユーザーが出てくる。それを阻止するために,各サイトは住民登録番号を入力しないと登録できないようにしたのです。この方が実名につながるから,投資会社もサイトの会員数が実数であると信用してくれる。ベンチャー企業にしてみれば,投資を受けやすくなるので,住民登録番号が本人確認にどんどん使われるようになったのです」。

 つまり住民登録番号による本人確認システムは,ネット・ビジネスを拡大するために導入されたのである。しかし,それはまたポータル・サイトに悪質なコメントを書き込んだ人や,サイバー犯罪者らを探し当てるためにも応用できる。これは本来なら彼らに警告を発し,その悪事を抑制することに結びつくはずだ。それなのに実際には誹謗中傷などが絶えないのは何故なのか。

 「それは結局,(韓国における一部のネチズンが)気にしなかったということでしょう。(悪口などを書き込んでも)特に処罰されることもなかったし。実名登録(本人確認登録)しても,サイトに表示されるのはニックネーム(ハンドルネーム)だから,表向きは日本と同じです」(竹井氏)。

 韓国では7月から「制限的インターネット本人確認制」が始まるが,事実上今まで行われてきたことを,法律で義務化することの意味は何なのだろうか。それに対して竹井氏は次のように指摘する。

 「要するに『法律施行後は本人確認を徹底する』といったところでしょうか。これによって,今までの問題が劇的に解決されることはないでしょう。しかし法制化されたことで,誹謗中傷などを書き込む人に対して,『脅し』というと聞こえは悪いが,『気をつけろよ』と抑制する効果はあるかもしれません。それから,来年4月の総選挙に備えた動きと見ることもできます。韓国では立候補者への攻撃や揶揄(やゆ)がネット上で多いので,それを法律であらかじめけん制したのでしょう」。

 では法制化されたことで,ごく普通の人でも,自分の悪口を書き込んだ人をパソコンからたどれるようにならないか。しかしこの点については,竹井氏は否定する。

 「いや,それはできないと思います。せめてIDが分かっていれば,『このIDの人がヘンなことを書いているけれど何とかしてくれ』というリクエストをサイト側に出す形になるでしょう。いずれにせよ,サイト側に問い合わせをしないと無理ですよ」。

 そうなると,結局,今の日本の状況と大差はないようだ。日本では「2ちゃんねる」のようなサイトの管理者が,誹謗中傷などを書き込んだ人の氏名やメール・アドレスなど,いわゆる発信者情報を開示するかどうかが,裁判の争点になっている。こうした発信者情報の開示請求権を被害者に認めたのが,2002年に施行された「プロバイダ責任制限法(通称)」だが,韓国にはこれに該当する法律があるのだろうか。

 「その点は存じません。ただ悪質な書き込みがテレビで報道されたりすると,すぐに消えている。確かに『通信の秘密』や『表現の自由』という問題はあるにしても,韓国のネチズンはわりとおおらかで,(書き込みを)消されても,『ああ,消されたか』くらいの感覚しかないようです」(竹井氏)。

 結局,プロバイダ責任制限法に該当する法律の有無は,今回の取材では確認できなかった。しかし,ネット上の誹謗中傷に関し,韓国と日本や米国との間には,問題意識のズレがあるという感触は伝わってきた。すなわち韓国では今,ネット上の本人確認を徹底することで,この問題に対処しようとしているが,日本や米国ではまずプロバイダの責任を法的に定めることで,これに対処してきたのだ。それに先に着手したのは米国なので,まずはその取り組みから紹介していこう。

Wikipediaで起こった名誉棄損事件(次ページへつづく)