顧客の事情だけでなく,ビジネスのバックグラウンドに配慮できることも,一人前のITエンジニアに求められる条件である。ところが,A子さんは「顧客最優先」に情熱を燃やすあまり,思わぬミスをしでかしてしまった。
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イラスト 野村 タケオ |
T社は,約70人のITエンジニアを抱えるシステム開発会社だ。大手ベンダー企業の下請け業務から数年前に脱却し,中堅企業のシステム導入支援や維持管理を直接受注するビジネス構造を確立した。といっても,T社には専任の営業担当者はいない。たたき上げの社長と常務によるトップ営業で契約を取ってくるのである。顧客からの日常的な問い合わせやクレームに対応するのは,現場のSEの役割だった。
入社して6年経つA子さん(28歳)は,そうしたSEの1人として3社の顧客企業を担当している。各社を一定期間ずつ巡回してプログラム開発やシステム管理業務に携わり,自社に戻ることはほとんどない。ハードな毎日だが,「顧客の要望が最優先」,「仕事を積み残さない」をモットーに,前向きに取り組んでいた。そんなA子さんの熱意は自然と伝わり,担当顧客から全面的な信頼を得ていた。
独断で見積もりを提出
1月のある日,担当顧客の1社であるN社に出勤したA子さんは,同社のYシステム課長に「ちょっといいかい」と声をかけられた。システム変更の相談だった。機械部品メーカーであるN社はこのところ,企業体力の強化を目指して製品の絞り込みを進めている。それに伴い,製品コード体系や受注処理業務を見直す必要が出てきたというわけだ。「なんとか新年度までに対応して欲しいんだ。至急,費用を見積もってもらえないか」。
Y課長の要請を受けてA子さんは,「これはなんとしてでも応えなければ」と張り切った。すぐに関係するプログラムの洗い出しに取りかかり,追加や変更,テストにかかる作業時間を見積もった。おおよその費用を算出し,3日後にはY課長に概算見積もりを提出。同時に,自社のH常務に正式な見積書を作成してくれるようメールで依頼した。A子さんは,「これでよし」と心の中でつぶやいた。
ところが翌日,H常務が飛んできた。「なんて勝手なことをしてくれたんだ!」。周りを気にして小さな声だったが,H常務はかなり興奮していた。「現場のエンジニアが独断で見積金額を提示するなんて,もってのほかだよ」。
A子さんはポカンとしてしまった。せっかくの受注チャンスに敏感に反応して,何がいけないのか。思わず言い返した。「そうおっしゃいますが,お客様はとてもお急ぎでした。それにY課長には,私が提示したのはあくまでも概算費用で,正式見積書は改めて提出する旨を伝えてあります」。
H常務は,「これでは当社の利益が出ないんだよ。だからといって,今さら概算とかけ離れた正式見積もりを出すわけにはいかないじゃないか」と語気を強めた。一方のA子さんも,「それなりに現実的な工数を見積もったつもりです」と後に引かなかった。H常務は「もっと,ビジネスのバックグラウンドを考えなさい」とA子さんをにらみ付けると,「とにかく,Y課長に事情を説明する」と行ってしまった。
A子さんは,どうしても納得できなかった。自分の見積もりがそんなに甘かったとは思えない。数日悩んだ挙句,「そうだ。C江先輩に話を聞いてもらおう」と思いついた。C江さんは,A子さんの高校時代の先輩で,現在は某SIベンダーに勤務している。実は,A子さんがIT業界に飛び込んだのは,C江さんが SEとして生き生きと働いている姿を見たことがきっかけだった。A子さんがさっそく連絡したところ,C江さんは快く時間を作ってくれた。
ビジネスの本質を見逃す
A子さんが事の次第を説明し終えると,C江さんはゆっくり話し始めた。「A子のとった行動は50%は正しいけど,残りの50%は間違っている。自分の判断だけで概算見積もりを出したことには問題があると思うよ」。
「どうしてですか」。A子さんは,口をとがらせた。C江さんは続けた。「商売には,複雑な事情が絡んでいることがあるのよ。N社とのこれまでの取引で,何かあったんじゃない?」。こう尋ねられて,A子さんは自社とN社との関係を思い返した。「そういえば…」。N社でのプロジェクトは毎回,開発費用の精算でもめていた。同社は,契約締結後にシステム仕様を何度も追加・変更するうえに,その分を追加請求になかなか応じてくれないのだ。確か,半年前に実施したプログラム修正作業の代金も,まだ全額は回収できていないはずである。
それを聞いて,C江さんはピンと来たようだ。「おそらく,H常務はその積み残し分を,次のプロジェクトで吸収しようと思ったんでしょう」。「それって,開発費を実際より多く請求するってことですか?」。声を荒げたA子さんを,C江さんが制した。「まあ,聞いて。いくら顧客第一と言っても,ビジネスはビジネス。サービスに見合った対価をいただかなくちゃ,企業は成り立たないでしょう?」。
C江さんは,さらにこう問いかけた。「もし,私たちベンダー企業が利益を上げられず,サービスを継続できない事態になったら,顧客はどうなる?」。A子さんは少し考えてから,「システム開発や運用体制を見直さなければならなくなります」と答えた。「そう。結局は,顧客に迷惑をかけてしまうでしょう?つまり,健全経営を心がけて,質の高いサービスを安定して提供することも,顧客への貢献になるってこと」。
こう聞いて,A子さんは軽いショックを覚えた。自分は顧客のその場の要望に応えることで頭がいっぱいで,取引関係の将来など考えてもみなかった。
肩を落としたA子さんを,C江さんは「あなたは勉強熱心だし,何より“誠実さ”というSEに欠かせない資質を持っているじゃない」と励ました。A子さんが顔を上げると,「あとは,ビジネスの裏側を理解すること。そうすれば,きっと優秀なSEになれるよ」と付け加えた。A子さんは,大きくうなずいた。
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