「タカダ先生,おひさしぶりです」
先月中旬にA社の東京工場を訪ねたとき,筆者に声をかけてきたのは,5年前に東京工場から大阪工場へ転勤していたK氏でした。5年間の「大阪勤め」を終え,この春の人事異動で再び,東京工場へ「出戻って」きたのでした。

 また,生産管理室ですか?筆者は,ちょっと皮肉な口調で訊(き)いてみました。

「そうです。今度は一応,『室長』という肩書きが付きましたけどね」
K氏も筆者の質問の意図を察したらしく,体育会系特有の,背筋を伸ばしたお辞儀をしながら,会社から支給された真新しい名刺を差し出してきました。あらま,栄転,おめでとうございます──。

 それはともかく,筆者が意図した質問とは何だったのか。

 A社のような大メーカーともなると,地方工場でも数百人の従業員が働いています。ところが,これだけの大人数がいながら日本の会社では,入社時に配属された部門がずっと同じ,というケースが多く存在します。たとえ人事異動によって工場を移ることがあっても,その人の職種は変わらないケースが多いようです。

 中小企業ともなると,もっとひどい状況にあります。「この道ひと筋,三十年」というのは,職人技を称(たた)えた意味もあるのでしょうが,その裏には「人事の硬直化」を揶揄(やゆ)したものが含まれています。

 筆者の前職は銀行員で,銀行というところは平均すると3年で異動を重ねます。公認会計士となって,大企業から中小企業までのコンサルティングを手掛けるようになったとき,A社をはじめとする「人事の硬直化」の現実を知って,少なからずカルチャー・ショックを覚えました。

 1つの部門で経験を重ねることは,会社の側からすれば効率がよく,コスト・ダウンの効果が高い。従業員本人にとっても楽な面があります。

「そうですよねぇ,特に四十歳を過ぎるようになると,新しい仕事にチャレンジしようという気が起きなくなります。」
筆者よりも2歳年下で,「生産管理ひと筋,二十年」の新任室長が,同意を示してくれました。

「その代わりに芽生えてくるのが,セクショナリズムですね」
よくいえば,自分が所属する部門への忠誠心。悪くいえば,縄張り意識というヤツです。

 ほどよい忠誠心であるならば害はないのですが,これが強くなってくると,他の部署への配慮を欠くようになり,果ては工場全体のことを考える,といった問題意識を失います。これを「部分最適化の弊害」と呼ぶことがあります。

 どうですか,K室長。5年ぶりに戻って,この工場は変わっているように見えますか?

「変わってないみたいですねぇ」
K室長は深いため息をつきました。

 設計部は相も変わらず,新技術を使って画期的な製品を開発したいと意気込み,研究予算をもっと寄こせ,と騒いでいるらしい。ところが,研究開発の失敗を意図的に重ねることによって,産廃業者とつるんで裏金を作っているのではないか,という噂が昔から絶えない。

 営業部は営業部で,顧客への短納期を至上命題とし,やたらと在庫を積み上げたがる。先月,工場の片隅に,プレハブ倉庫がまた一つ増えました。K室長が「なんでまた,こんなところに倉庫を建てたのだろう」と訝(いぶか)しく思いながら倉庫の裏手に回ったとき,数人の営業部員が紫煙をくゆらせていたそうです。そうか,“クリーン工場”を掲げているから,敷地内では禁煙なんですよね。新しい倉庫が隠れ蓑,といったところですか。

「高校生のときのほうが,もっと堂々と吸っていましたよ」
K室長が皮肉混じりに答えてくれました。

 製造部では「生産計画」が日本国憲法よりも優先され,作業効率を上げることが人類に幸せをもたらす,とされています。コスト・ダウンは「葵の御紋」とされ,他の部門が設計変更や納期変更を依頼しようものなら,「この紋所が,目に入らぬかっ!」と,たちどころに威力を発揮する場面に,筆者も何度か立ち会ったことがあります。

「春は,予算編成でコスト構造を変えるチャンスであるとともに,人事異動によってそのチャンスの芽を摘むことにもなるんですよね」

 K室長がそう言って通り過ぎた横の掲示板には,『すべての部署でチャレンジ精神を発揮しよう!』という標語が貼り付けられていました。日に焼けたその紙は,5年前にK氏が張り出したものでした。


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■高田 直芳 (たかだ なおよし)

【略歴】
 公認会計士。某都市銀行から某監査法人を経て,現在,栃木県小山市で高田公認会計士税理士事務所と,CPA Factory Co.,Ltd.を経営。

【著書】
 「明快!経営分析バイブル」(講談社),「連結キャッシュフロー会計・最短マスターマニュアル」「株式公開・最短実現マニュアル」(共に明日香出版社),「[決定版]ほんとうにわかる経営分析」「[決定版]ほんとうにわかる管理会計&戦略会計」(共にPHP研究所)など。

【ホームページ】
事務所のホームページ「麦わら坊の会計雑学講座」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~njtakada/