2007年3月29日付の日本経済新聞朝刊一面に、「自動車制御 トヨタが標準ソフト」という大きな記事が載った。この記事の内容とは直接関係ないが、「トヨタのものづくり力とソフトウエア」は考えるに値するテーマである。そこで2004年11月に出版された日経ビズテック第4号から、『ソフトウエア工学で注目集める「日本型ハードウエア生産法」』という記事を再掲する。

この記事は、当時神戸大学の教授であった林晋氏(現・京都大学大学院文学研究科教授)への取材に基づき、筆者が書いたものである。林教授はその後も同じテーマについて考察を重ねており、現在は本稿より進んだところにいる。ただし「真髄を語る」欄の主旨は、読者の皆様が考えるための素材を提供することにあるので、あえて2年以上も前の論考を紹介する。まず雑誌掲載時の概要文、続いて本文を再掲する。(谷島宣之=「経営とIT」サイト編集長)

「日本人は論理的・合理的な思考ができない。だから論理の固まりであるソフトウエアに弱い」と言われるが、これは真実とは言えない。なぜなら、ソフトウエア工学の先頭を走る米国において、自動車産業に代表される「日本型のハードウエア生産法」をソフトウエア開発に応用する動きが活発になってきたからだ。日本型の手法をソフトウエアに活かせる可能性があるわけだが、それだけでは不十分。米国型のソフトウエア工学も取り入れ、両者を融合させる必要がある。


 日本人は論理的か否か。日本人は合理的か否か。そもそも論理性や合理性とは何なのだろうか。これが、私が最も興味を持っているテーマである。

 もともと数学基礎論を学んでいた私は、論理学、コンピュータサイエンス、ソフトウエア工学(ソフトウエアエンジニアリング)、さらには科学史や技術史まで研究テーマを広げてきた。このため「一体全体、専門は何ですか」と聞かれることが多いが、論理性と合理性の追求という点において一貫性があると自負している。

 具体的に何を研究しているのかというと、ソフトウエア工学においては、システムのモデルをつくるための共通言語であるUMLと、UMLを使った開発方法論を主に研究している。コンピュータサイエンスの分野では、プログラミングへの学習理論の応用を考えている。これらはすべて、論理と合理がついてまわる。また科学史、とりわけ数学史を調べているが、ここでも興味は数学における論理の役割にある。

 色々なことをやっている中で、最近関心を持って調べているのは「ソフトウエア工学における日本型ハードウエア生産法の流行」についてである。ここでいう日本型生産法とは、分かりやすく言ってしまえばトヨタ自動車を代表とする、いわゆる「日本のものづくり」手法を指している。

 ソフトウエア工学の先進国である米国の中で、さらに先端を走っている研究者や開発者たちが、日本のものづくりを賛美しているのである。これは一体何を意味しているのだろうか。トヨタ生産方式は自動車を作るのであれば、確かに世界に冠たる手法であろう。ただし、それがそのままソフトウエア開発に適用できるのか。

 そこで様々な文献を調べたり、ソフトウエア業界の人々と議論を重ねてきた。その結果、このいささか奇妙な現象の意味と、そこから日本が何を学ぶべきかを、私になりに解釈できつつあると思っている。

日本型ソフト開発の可能性

 結論を先に述べておくと、確かに自動車産業に代表される「日本型ハードウエア生産法」はソフトウエア開発に応用できる可能性がある。ここでいう日本型生産法とは、現場のチームが自主性を持って仕事をし、常にやり方を改善し続け、最も合理的なやり方に到達することをいう。このやり方の対極にあるのが、事前にすべての計画を決めておき、トップダウンで生産指示を出し、生産状況を管理していく手法である。

 面白いことに、日本のソフトウエアの開発方法は場当たり的であって、きちんと事前に計画を立てられないからダメだ、と言われ続けてきた。むしろ米国型のやり方を学べ、というのが日本のソフトウエア工学の風潮であった。ところが米国のほうではまったく逆の動きが出てきて、しかもそれが一つのムーブメントにまでなっている。

 ただし「日本型でやればいいのだな」と安心してはまずい。米国勢は、従来の米国型に「日本型」を取り入れて成果を得ようとしている。つまりここでいう「日本型」とは、生まれたのは日本においてかもしれないが、日本以外の国でも採り入れることができる普遍性があるやり方を指す。従って日本勢は日本型だけで事足りると思ってはいけない。普遍性を持つ「米国型」のソフトウエア工学も取り入れ、日本型と米国型を融合させる必要があるのである。