ソフトウエア・エンジニアリングのリーダーの一人、エド・ヨードンは1992年に、『Decline and Fall of the American Programmer 』を著し、米国のソフトウエア産業の衰退と挫折を警告した。この本を出す少し前まで、彼は「この国が危ない(A Nation at Risk)」というタイトルで講演行脚をしており、同書はそれをまとめたものである。

 この本の中で、ヨードンは日本をソフトウエア開発における優等生の一人として挙げ、インドの飛躍を予見している。本が書かれた時点では、インドのIT産業はまだ黎明(れいめい)期にあったが、彼の予想通り、現在は英語圏で質の高いソフトウエア開発力が得られる国として、欧米から頼られる存在になり、IT立国を目指す他のアジア諸国からお手本と見なされるまでになった。

 「この国が危ない」というヨードンの警告に触発されたのか、米国上院の「米国の通商、科学技術、及び運輸に関する委員会」は91年に、「米国のソフトウエア産業の競合性」に関する公聴会を開いた。出席者は、ジョンF. ケリーを含む22人の上院議員であった。証人には、元IBMで当時は三菱電機研究所の所長を務めていたラスズロ・ベラディー、日本ではおなじみのマイケル・クスマノ(当時はMIT教授)、ケーデンス社のジョセフ・コステロ、オラクル社のロバート・マイナー、マイクロソフト社のウィリアム・ニューコムの名がある。公聴会でベラディーは次のように証言した。

 「ソフトウエアを一つの産業セグメントと見るのは危険です。(中略)どの産業も増え続けるソフトウエアで動いているのです。ソフトウエアの競合性は、既存のある産業の競合性の問題なのではなく、産業全体の競合性に関わるのです」

ソフトはすべてにかかわる

 これはソフトウエア産業が他の産業と著しく異なる点である。例えば、自動車産業なら、それを構成するメーカーは数社に限定される。ソフトウエア開発会社の団体である情報サービス産業協会がソフトウエア産業を代表していると思うのは大間違いで、ソフトウエア開発は、銀行、証券、運輸、流通、そして自動車や家電メーカーなどすべての業界で行われており、その質は基幹ビジネスの競合力、時には安全性さえ左右する。

 世界のIT産業をリードしてきた米国の政治家が、91年にソフトウエア産業の競合性をテーマにした公聴会を開いたこと自体、意外の感がある。その5年後、ヨードンは前著と対照的な、産業の目覚めと復活をタイトルにした、『Rise and Resurrection of the American Programmer 』を著し、米国のソフトウエア産業の復活を高らかに宣言した。

 米国のIT産業を復活させたのは、オブジェクト指向やアジャイルと呼ばれる創造的なソフトウエア開発方法であった。さらにインターネットを利用したFedExの追跡システムのような、斬新なビジネスモデルの登場も、IT産業を刺激した。

 一方、90年代のほぼ同じ期間に、日本は大型コンピューター(メインフレーム)から、複数の小型コンピューターを組み合わせたクライアントサーバーシステムへの移行に乗り遅れた。ソフトウエアエンジニアリングの世界を見ると、オブジェクト指向への転換が遅れ、アジャイルあるいは「XP(エクストリームプログラミング)」と呼ばれる新しい開発メソッドは拡がらず、インターネットを使ったいわゆるドットコムビジネスの美味しいところは欧米ばかりかシンガポールなどアジア諸国に先取りされる、という状態に陥った。

 今でこそ日本の政治家や役人はITの重要性を唱えるが、インターネット出現の初期に、それがあらゆる分野でパラダイムチェンジをもたらすことを予見した政治家や役人はいなかった。既に確立した知識の上にあぐらをかいた権威者たちには、インターネットがもたらす地殻変動のような変化が見えなかった。

 ヨードンが前掲書に、またクスマノが『日本のソフトウエア戦略』に書いたように、メインフレーム全盛時代の日本のソフトウエア開発力は、かなり高い水準にあると評価された。当時の調査の実態を知る筆者から見ると、これらは選別されたデータに基づく、やや過大な評価であった。それでも、富士通、日立製作所などコンピューターメーカー各社が、製造業の伝統を継承し、それぞれが「プロダクト指向の品質ドリブンモデル」とでも言うべきソフトウエア開発モデルに沿って、かなり高い水準の品質と生産性を達成していたことは事実である。当時の日本企業はソフトウエア開発環境への投資にも熱心であった。

 ところがその後、米国やインドとは逆に、日本のソフトウエア開発の国際競争力を憂慮せねばならない状態に陥った。開発プロジェクトの混乱、製品出荷後の不具合、システム稼働後のトラブルをしばしば耳にするようになり、国内の開発者だけではソフトウエア開発への要求を満たせなくなった。

なりふり構わぬ大量採用

 日本のソフトウエア産業衰退の跡をたどるために、少し時間軸を前に戻そう。1970年から80年代にかけて、ソフトウエア開発の需要が急増した。この時期に、日本は産業界を挙げて、プログラマー採用競争が起こった。大企業は軒並み三桁から四桁の単位で新卒をかき集め、内定者をつなぎ止めようとあの手この手を使った。

 それでも大手コンピューターメーカーや大手のユーザー企業は旺盛なソフトウエア開発需要を満たせず、ソフトウエア会社から派遣されてくるプログラマーを大量に使うようになった。中小のソフトウエア会社も採用競争に参加し、文学部や商業高校まで枠を広げた。開発要員の調達に苦慮する産業界は、政府にプログラマーの不足を訴えた。

 84年に通産省は「90年に60万人のソフトウエア技術者が不足する」と予測した。この数値は後に「2000年に97万人が不足」と修正された。しかし、産業側にも政府側にも、要員の質についての意識が希薄であった。

 中小のソフトウエア会社は、市場からの要請に応えて、新卒者をろくな教育もせずに開発プロジェクトに放り込んだ。大企業が採用した新卒者も、大量の採用で教育に手が回らず、事情は大して変わらなかった。