「一人ひとりのマネジャーや技術者はどのような能力を身に付けるべきか」。これが筆者に与えられたテーマである。「仕事柄、国内外のビジネスプロフェッショナルや技術者・研究者に会う機会が多いだろうから、海外と日本の思考方法の違いを書いてほしい」とも依頼された。

 「仕事柄」とは何かというと、一つは国際的な活動である。筆者の専門はソフトウエアであり、専門に関係した複数の国際標準化団体とかかわっている。もう一つは、教育である。二〇〇三年から文部科学省科学技術政策研究所科学技術動向センターの客員研究員として、科学技術教育に関しても議論する機会が生じている。こうした背景から、国際化や人材育成について考えることが多い。

 一人ひとりのマネジャーや技術者が身に付けるべき能力を議論する前に、私の問題意識を示しておくべきだろう。本稿における「問題点」を次のように設定する。

日本国内で強い技術を持つ産業(企業)が国外で勝てない。

 「勝てない」ではなく、「通用する」とか「それなりの扱いをうける」という表現がより適切かもしれないし、「国内で強い」といっても本当に世界に通用する素地がある「強さ」なのか、独善的に思い込んでいるだけの「強さ」なのか、といった点は議論の余地がある。ともかく、それなりの強さがあるという前提で話を進めよう。

改めて戦略を考える

 世界で勝つにはどうするか。

『勝つための「戦略」を考え抜くことに尽きる。しかも、経営トップから一人ひとりの技術者まで、全員が戦略を考える能力を身に付けるべきである。』

 これが筆者の結論である。戦略という言葉は乱用されており、またかという向きもあるだろう。ただし、日本で戦略と称しているものの大半は、依然として単なる「策略」や「手段」にすぎないことが多い。

 念のため、戦略の構成要素をまとめておこう。戦略には、「目標」と、世界が今どうなっているかという「現状認識」が含まれる。現状認識は、目標達成のために必要な情報を集めるための土台である。次に目標達成のための「手段」と「仕掛け」がいる。最近ではビジネスモデルといったほうが分かりやすいかもしれない。さらに戦略を「評価する手法や尺度」を用意する。戦略は通常、複数個あるはずで、比較評価して良いほうを選ぶことになる。

 戦略は、なんとなく高級感があるかのように聞こえる言葉であり、企業でいえば、社長の周辺で議論するもので、一般社員、ましてや新入社員が云々するものではないという雰囲気がある。しかし筆者は新入社員であっても、学生であっても、上記の戦略構成要素を考える力を持つべきだと考える。日本と、日本企業にまず求められるのは、新しい発想に基づく戦略である。それを生み出すためには、考える人が一人でも多いほうがよい。玉石混交のアイデアから、ダイヤモンドを掘り出すのは、マネジメントの仕事であろう。

 実際、戦略や戦略立案のための各種情報をできる限り、全社員で共有しようという試みを始めた企業がでてきている。戦略を組織の中のすべてのメンバーが理解し、すべてのメンバーが戦略を議論し、必要なら提案できるというものだ。例えばクレディセゾンでは「新入社員や契約社員が戦略を含めた提案を出すことを歓迎している」と林野宏社長が講演会で話しておられた。「会社の中にどっぷり浸かってきた社員から新鮮な提案を期待できますか」とのことだ。

 仮定の話だが、新入社員に「当社における最初の一年間をどのように過ごすか、あなた個人の戦略を述べよ」というレポートを書かせたら、どのようなものを書いてくるだろうか。日本の多くの新入社員は「上司と先輩に言われたことをきちっとこなせるようにする。定時に出社し、挨拶し、外出や休暇についてきちんと届け出る。報告は定められた期限までに終える。ご指導、よろしくお願いします」などと書くのではないか。今でもかなりの日本企業がこうした新入社員を求めている。新入社員は、企業が何を望んでいるか、敏感に察知するものだ。

 しかし、戦略を記述したレポートとしてこれを採点するなら、とても合格点は付けられない。戦略の構成要素がほとんど欠けているからだ。「一年後にどんな社員になる」という目標の記述がない。当然、「自分自身に対する」現状認識がない。書かれているのは「定時出社や報告の実践」という手段だけで、仕掛けもない。代替案もなければ、評価尺度もない。最後にいたっては「よろしくお願いします」という、甚だ無責任な、他者に依存する気持ちが表明されている。

 戦略の構成要素の中で、目標設定と現状認識は、日本企業が特に苦手とするところであろう。戦略を考えるには、まずは、どうするかを自分で考える習慣を身につけなければならないが、日本には「議論倒れ」「下手の考え休むに似たり」という言葉がある。そして「あれこれ考えるより、やってしまえ」と問答無用の指令が出たりする。だが、言われたことだけをしていて、何も考えなければ進歩はありえない。

問答無用でよいのか

 考えるというのは、いろいろな場で、従来のやり方に比べて手間隙をかけなければならないと言うことである。場合によっては、日本が現在維持している卓越した効率性を失う可能性すらある。例えば、日本の小売店の人の流れはかなりスムーズである。欧米の小売店で、レジの担当者と客が品物をめぐって長々と議論している非能率さに苛立った日本人は多いのではなかろうか。

 筆者としても、あの非能率さを推奨するつもりはないのだが、「ちょっと待てよ、これでいいのか」「いや、わたしはこうあるべきと考える」という質問や疑問を、人の流れを邪魔するようであっても、さまざまな場で呈することを妨げてはならないと思う。この姿勢こそが、戦略立案の前提になるに違いないからである。

 とりわけ、「ちょっと待て」という態度は、今の日本の企業社会では、CSR(企業の社会的責任)を果たすという点からも必要であろう。思考停止の企業や人間は、戦略性を持たないだけではなく、自らの責任すら果たせなくなる。思考停止の効率性と引き換えに手に入れているのが、戦略性の欠如と社会的責任の放棄であるとしたら、大きな失敗をしでかす前に、時には効率性を棚上げしてでも、戦略性と安全性を議論すべきであろう。