昨今,友達向けのブログやSNS(Social Networking Service)など,かつてのパソコン通信サービスを彷彿とさせる“署名文化”が,人気を集めている。自分が誰なのかを提示してメッセージを発するというスタイルだ。こうしたパソコン通信型の個人認証IDやハンドル(ニックネーム)を批判するつもりは全くないが,記者は自分が誰なのかを明らかにしない匿名こそ,コミュニケーションの可能性が広がると感じている。

 ユーザー認証を経ることなく,誰でもHTTPリクエストを投げるだけで匿名でメッセージを発信できること---。白状すれば,これは記者がずっと理想卿(ユートピア)として描いてきた社会モデルである。WebブラウザとWebアプリケーションによって,こうした匿名が簡単に普及したことはご存知の通りだ。記者も,当時のCERN_httpdが備えていたCGI(Common Gateway Interface)と呼ぶ,環境変数と標準入出力を用いた単純なインタフェースを使って,シェル・ラッパーとawkスクリプトだけで匿名BBS(Bulletin Board System,電子掲示板)を作って遊んだものだ。

 パソコン通信時代からよく言われた匿名のデメリットは,責任の所在が明らかにならない,というものだった。このキブンを表現すれば「匿名で発言することは無責任な行為であるためロクでもなく,署名入りで発言することは責任を負う覚悟が出来ているため人間的に素晴らしい」という価値観である。少し乱暴に言い切ってしまえば,「署名入りであることが発言者の人格を保証し,かつ人格者による発言は価値がある」ということになっていた。

 加えて,使っているハンドル(ニックネーム)が戸籍上の本名だったり,電話番号や住所をプロファイル情報に載せていることも,ポイントが高かった。個人による個人情報の開示は,言ってみれば現代の個人情報保護という常識的な価値に対する,「私には隠しごとなんて無いぜ」という,アウトローっぽい純粋なカッコ良さの演出につながっていた。

コンテンツの中身の優劣だけで勝負したい

 記者は,この風潮が嫌いでならなかった。うがった見方かも知れないが,責任を取るというカッコ良さよりも,どちらかと言うと「素晴らしいコンテンツを発している表現者の私と個人識別情報をヒモ付けて自己顕示したい」という欲求が,そこに見てとれるからだった。パソコン通信時代,記者も「いかに人を楽しませるか」を狙いに行く表現者だったので,表現欲自体を否定することはしない。だが,コンテンツの表現と個人識別情報が発言者の意思とは無関係に否応なしに一対一に対応付けられることに,少なからず抵抗を感じていた。

 むしろ記者は,名の通った有名人が発言することによって,それまで活発だった議論が一気に止まってしまう,といった“署名のデメリット”に対して危惧を抱いた。これは読み手としても書き手としても不幸なことである。そして,匿名にすることによってコンテンツと人格を切り離せば,人格にヒモ付いた権威などの先入観を排除した純粋なコンテンツとコンテンツのバトル(闘い)ができる---という確信を持った。署名文化の浸透は,発言者の人格と発言内容をセットでしか考えられなくなる状況を生む恐れがあるのだ。

 恥ずかしがり屋の人が面白いことを思いついたときに,面白さの自己評価が高ければ高いほど,「自慢しているように受け取られないだろうか」といった余計な心配に心を奪われて,署名入りの投稿に抵抗を感じるということもあるだろう。こう考えるのは記者だけかもしれないが,より面白い,よりクオリティが高い投稿は,署名入りよりも匿名の方が出てきやすいのは確かだと思う。

 結局,誰に向かってメッセージを発するのか---。つまり対象読者の数によって,署名と匿名を切り替えるのが一番良いと記者は思う。家族や友人へのメッセージであれば,メッセージの内容そのものよりも,メッセージを発しているのが自分であることを伝えることの方が本質的である場合が多いため,署名入りを選べばいい。家族向けブログやSNSは署名が基本ということだ。一方で,より広い範囲,社会全体に対するメッセージであれば,匿名を選びたい。先入観を排除してコンテンツの中身の優劣だけで勝負できるからである。