写真1●携帯電話抑止装置を設置したNHKホール。収容人数4010人。年末の紅白でおなじみだ。
写真1●携帯電話抑止装置を設置したNHKホール。収容人数4010人。年末の紅白でおなじみだ。

 「ピリリ,ピリリ,ピリリ」。演劇やコンサートの最中に,突然誰かの携帯電話の着信音が鳴り響いて劇場内の空気が凍り付く---。以前は時々あったこういうアクシデントが,最近はめっきり減った。開演前に「携帯電話の電源をお切りください」というアナウンスが入るようになったからだと思っている人が多いだろう。もちろんそれは大きな要因。でも,もしかしたら劇場に「携帯電話抑止装置」が設置されたせいかもしれない。

 携帯電話抑止装置とは,エリア内の携帯電話の電波をあえて“圏外”にさせる装置だ。この数年,帝国劇場,国立劇場,東京宝塚劇場,NHKホールなどの劇場やコンサート・ホールが相次いで携帯電話抑止装置を導入しているという。携帯電話事業者を始め,携帯電話の電波を受信できるようにする取り組みはよく聞くが,圏外にさせる装置というのはあまり聞かない。果たしてどんな装置なのか,劇場のどこに設置しているのか。12月上旬に携帯電話抑止装置を導入したばかりのNHKホールに見せてもらいに行った(写真1)。

基地局と同じ電波を出して“なりすます”

 NHKホールでは,井上勝利支配人とエグゼクティブ・エンジニアの北崎六郎さんにお願いして,まずは実物を見せてもらう。ディスプレイの電波表示を見ながらNHKホールの劇場内に入ると,すぐに3本立っていたアンテナが消え,「圏外」の文字が出た。どうやら電源が入っているようだ。一体どこにあるのだろう。

 キョロキョロしていると,「ほら,あれですよ」と井上支配人に声をかけられた。井上支配人が指さす方向を見てみると,劇場の両脇に設置してあるスピーカーの脇に,それぞれ黒くて四角い箱がついている(写真2の上)。「結構地味な箱ですね」と言う私。「そうね,目立たないよね」と井上支配人が答える。カニの足のように見えるのはアンテナだそうだ(写真2の下)。

写真2●舞台両サイドのスピーカーの脇に携帯電話抑止装置が付いている。スピーカーの色と一体化しているのでパッと見るとよくわからない。下は携帯電話抑止装置をアップにしたところで,左右に出ているのがアンテナ。
写真2●舞台両サイドのスピーカーの脇に携帯電話抑止装置が付いている。スピーカーの色と一体化しているのでパッと見るとよくわからない。下は携帯電話抑止装置をアップにしたところで,左右に出ているのがアンテナ。(撮影:中村宏)

 それにしても,あんな箱で何ができるのだろう。携帯電話抑止装置を開発したマクロスジャパンの河本浩樹常務に聞いてみた。すると,河本常務は「携帯電話抑止装置は携帯電話の基地局と同じ周波数の電波を基地局よりも強く出すことで,そのエリア内の携帯電話が基地局と通信できないようにするんです」と答えてくれた。携帯電話抑止装置1台で直径約100メートルの圏内をカバーできるという。

 携帯電話抑止装置のしくみを説明する前に,そもそもの携帯電話のしくみを確認しておこう。携帯電話機は電源が入っている間,一定間隔で電波を出して最寄りの基地局に自分の位置情報を伝える。これを受けた基地局は,携帯電話機の認証などに必要な制御情報を電波に乗せて応答。制御情報を受信した携帯電話機が着信可能になる。このように,携帯電話機は通話やメールの送受信をしていないときでも,定期的に基地局と制御情報をやりとりすることで受信可能な状態を維持しているわけだ。

 では,携帯電話抑止装置を設置するとどうなるか。携帯電話抑止装置のエリア内にある携帯電話機は,通常通り最寄りの基地局に自分の位置情報を伝える電波を出す。すると,本来は基地局から応答があるはずだが,携帯電話抑止装置が携帯電話の基地局と同じ周波数でより強い電波を出しているため,携帯電話機は携帯電話抑止装置の電波を基地局からの電波だと思いこんで受信してしまう。ところが,携帯電話抑止装置の電波には基地局からの電波に含まれるような制御情報は入っていない。こうなると,携帯電話機は状況を理解できず,とりあえず“圏外”と判断するのだそうだ。つまりは,基地局になりすまして携帯電話機に空っぽの情報を送りつけ,半ば強引に圏外にしてしまうというわけだ。

 なお,携帯電話の周波数はNTTドコモ,au,ソフトバンク・モバイルで異なる。NTTドコモは800MHzまたは2.1GHz,auは800MHz,ソフトバンク・モバイルは1.5GHzまたは2.1GHz,ウィルコムのPHSは1.9GHzだ。そのため携帯電話抑止装置は,各事業者の電波に合わせた電波を出すモジュールを組み込み,すべての事業者に対応できるようにしているそうだ。

利用するには総務省への申請が必要

 ここでマクロスジャパンの河本常務にずっと気になっていたことを聞いてみた。「秋葉原なんかで売ってるものとはやっぱり違うんですか」。私はパソコンのパーツやホビー用品などを買いによく秋葉原へ出かける。そこで無線機などにまぎれて携帯電話抑止装置なるものが売られているのを見た記憶があったのだ。

 すると河本常務は「ああ,ああいう製品は申請なしに使えますが,その分,電波が微弱なので劇場などの広い場所では効果はないですね」と言う。そうか。あの手の製品では弱すぎるのか。確かにあやしそうだとは思っていたのだが…。そしてここでふと気付いた。「あれ?携帯電話抑止装置を使うのには申請が必要なんですか?」

 マクロスジャパンの携帯電話抑止装置は,基地局よりも携帯電話機に近い場所からとはいえ,基地局よりも強い電波を出す。そのため,電波法上,利用するには総務省に申請が必要だ。そして,現在は携帯電話の実験局として認可を受けている。すでに実用化しているものが実験局として認可されているというのもおかしな話だ。ただ,現在の日本の法律では携帯電話の実用局は携帯電話事業者が所有する基地局しか想定していない。そのため,実用局になろうとすると高額の免許料が必要になるそうだ。しかも,携帯電話抑止装置の場合,免許料は機器を設置する劇場が負担する。劇場が携帯電話事業者と同じ額の免許料を払うのは到底無理だ。一方,実験局なら免許料は1台につき年間500円で済む。「そのため,総務省と相談して当面実験局扱いになりました。現在,実験局とも携帯電話の基地局とも違う枠組みにしてもらえるように総務省に要望しています」(マクロスジャパンの河本常務)。

 なるほど。ただし,ここでまた疑問が一つ。そんなに電波が強いと,ワイヤレス・マイクと干渉したりしないのだろうか。一般にワイヤレス・マイク(B型)が使う周波数は806M~810MHz。携帯電話は810MHz以上を利用しているので干渉しそうだ。河本常務によると,携帯電話抑止装置では独自技術を使い,電波の出力精度を上げたり周辺の周波数に漏れる電波をカットしたりして干渉を防いでいるという。「確かにいろいろなテストをしたけど干渉はしなかった」とNHKホールの北崎さんは証言する。

 NHKホールでは,携帯電話抑止装置を実際に導入するまで繰り返しテストをしたそうだ。NHKホールでは,通常のコンサートだけでなく,NHKの公開番組の収録もしている。生放送の番組も少なくない。万が一,収録中にワイヤレス・マイクや放送機器が携帯電話抑止装置と干渉してトラブルを起こせば,放送事故になってしまう。そのため,放送番組やコンサートのリハーサル時などを利用して,携帯電話抑止装置によってノイズが出ないかを徹底的に確認したという。そしてその結果,問題ないと判断し,導入を決めた。

 「実はね,4年前にも導入を検討したんです」と井上支配人は打ち明ける。結局,その時は必要ないと判断したそうだ。でも,この数年で携帯電話のユーザーはさらに増えた。中には携帯電話の扱いに慣れていない人もいる。また,携帯電話会社の努力もあって,圏外のエリアはどんどん減ってきた。コンサート・ホールや劇場とはいえ,ゆったりと音楽に聞き入る空間を維持するのは難しくなっているようだ。「観客が携帯電話の電源を忘れずに切ってくれるのが一番いい。でも忘れる人もいますから,携帯電話抑止装置を入れた方が確実でしょう」(井上支配人)。

 携帯電話はいつでもどこでも電話を受けられるからこそ便利だ。その半面,うっかりするとつながらないでほしい場面でもつながってしまう。携帯電話抑止装置は携帯電話が普及すればするほど必要度が高まる機器と言えそうだ。