AAA(米国仲裁協会)は88年11月29日に、米IBMと富士通の紛争の最終裁定を発表した。コンピュータ産業史最大の係争事件はここに決着したのである。振り返ってみると、この事件は、知的財産権にかかわる問題の重要性を知らしめた、さきがけと言えるものであった。当時の日経コンピュータ編集長、松崎稔がその意義を改めて振り返る。

 AAA(米国仲裁協会)が、IBM・富士通紛争解決へ向けた裁定(「意見書」と「命令」)を1987年9月に公表し、コンピュータ産業史最大の係争事件はついに解決に向かい始めた。このことは前回述べた。前回記事の中で、「SF(セキュアド・ファシリティ)を運用するための指示書、ルール、ガイドライン、手続きなども規定した」と説明したが、より正確に書くと、AAAは数カ月の期限を切ってそれらの規定を作成するよう求め、両社が合意に達しない場合はAAAが裁定すると「命令」していた。

 この時点では、IBMと富士通の主張が根本的なところで鋭く対立していたのである。すなわち、(1)ワシントン契約で合意した指定プログラムに対する一括ライセンス料の算定、(2)SF制度の詳細(プログラム資料からどういう情報を取り出して良いかを規定する指示書)とそのプログラム資料使用の対価、に関してはまだ決着していなかった。

裁定に大きな反響、ユーザー保護優先の姿勢に評価

 未決着のところがあったものの、87年9月のAAA裁定は、大きな反響を呼ぶとともに、妥当なものと受け止める向きが多かった。83年のEI契約に代え、有償アクセスかつ期限付きではあるが、互換OS開発に必要なプログラム資料入手と使用を保証するSF制度の創設を決めるなど、ユーザーの保護と競争促進という姿勢が明確だったからである。

 日経コンピュータ87年10月12日号の特集『解決へ向かうIBM・富士通紛争』の中で、福崎直明副編集長(現・QUICK取締役)は次のように記している。

 我が国コンピュータ業界のなかには、AAAが泥沼化している著作権論争に深入りすることなしに、「IBMの知的所有権を認めながらも、富士通が互換機を開発するための現実的で具体的な枠組みを示した」(水野幸男日本電気常務)と仲裁命令を評価する声が多い。
 AAAが「最大の勝利者はユーザーである」(クールソンAAA会長)と語るように、富士通のIBM互換機開発を支持したのはユーザー保護を最優先したため。(中略)
 こうしたAAAのユーザーを保護する、あるいはメーカー間の競争を促進する姿勢が、「ソフト情報の開示義務」についても貫かれている。
 IBMの知的所有権を保護するために資料にアクセスできるのは一般顧客への出荷時以降、SF制度は5年から10年と期限に限りがある過渡的なもの、アクセス料も十分かつ適切でなければならないとしているが、SF下で開示するプログラム資料は「ソース・コードも含む――これは一般顧客が入手可能なものか否かを問わない」と明記。ロバート・マヌーキン仲裁人は「仲裁人が公開を命令したものについてIBMは拒否できない。逆に富士通もソフトに対する代償の支払いを拒否できない」と述べている。

一括払い金額に注目が集まり、知的財産権の論議が過熱

 87年9月のAAAによるIBM・富士通紛争の裁定公表により、一括払い金の額に関心が集まるとともに、知的財産権、著作権論議がさらに過熱した。このテーマを一貫して追求してきた日経コンピュータは報道を続けていった。87年10月26日号には、編集長インタビュー記事として『ソフトの法的保護を考える上で今回のAAA裁定は興味深い』を掲載。この中で、「コンピュータ・ソフトウエアの法的保護に関する国際シンポジウム」(ソフトウエア情報センター-SOFTIC-主催)の実行委員長を務めていた加藤一郎成城学園長(当時)は次のように語っている。

 今回の裁定で私が非常に興味を持ったのは、裁定の中に私たちがプログラム権法で考えていた強制実施権的な考えを取り入れている点です。SF(セキュアド・ファシリティ)という一定のルール下ではありますが、IBMは富士通から指定されたソフトのソース・プログラムを含む資料を提出しなければならないという点です。

 この加藤一郎氏が実行委員長を務めた「コンピュータ・ソフトウエアの法的保護に関する国際シンポジウム」は、87年10月28日から3日間、東京・新宿の京王プラザホテルで開かれた。IBM・富士通紛争のAAA裁定が出た後だけに、富士通、日立の技術者や日本の弁護士らがIBMの弁護士らと白熱した論戦を繰り広げるなど、緊張感みなぎるシンポジウムとなった。

 これらの論戦を含め、日経コンピュータは88年1月4日号で『知的所有権の保護めぐり急がれるコンセンサスの形成:SOFTIC主催の国際シンポで浮き彫りになったソフト著作権保護の混迷と展望』と題する記事を掲載した。

88年11月末、6年間にわたるIBM・富士通紛争がついに決着

 87年9月16日の記者会見で、AAAのマヌーキン仲裁人は、IBM・富士通紛争の一括払い金について「1年後ぐらいに命令ではっきり決め、公表する」と言明していた。果たしてほぼその通り、AAAは88年11月29日に最終裁定を下し、指定プログラムに対する一括ライセンス料(一括払い金)、SF制度の詳細とプログラム資料使用に対する対価(アクセス料)を定め、「意見書」と「指示書」を公表した。

 一括払い金は総額8億3325万ドル(約1000億円)、89年の1年間のアクセス料は2567万から5134万ドル、SF制度の詳細は「指示書」で定めた。私はすでに編集作業を終えていた日経コンピュータの88年12月5日号に、時間的には厳しかったが「緊急レポート」を掲載することを決め、表紙をめくった巻頭に8ページのレポートを突っ込んだ。
 
 そのレポートが、『米国仲裁協会(AAA)、IBM・富士通紛争の最終裁定下す:インタフェース情報の有償利用定着へ、支払い総額1000億円』であった。この問題を掘り下げて追求し続けてきた福崎副編集長が執筆している。
 
 こうして、IBMと富士通の間で6年間にわたって争われていた知的財産権に絡むコンピュータ産業史最大の係争は決着し、日経コンピュータの一連の報道も、この緊急レポートをもって一段落した。

「知財権時代」を開いた歴史的事件

 今から振り返れば、IBMと富士通、日立間の紛争は、2002年7月3日に知的財産戦略会議が策定した「知的財産戦略大綱」、並びにそれを受けた「知的財産基本法」につながる知的財産重視へ向けての時代転換の始まりを象徴する歴史的事件であったと言える。それだけに知的財産権という視点をはやくから取り入れ、日経コンピュータがIBMと富士通、日立間の紛争をいち早く、正確に報道してきたことの意味は大きかったと自負している。

 IBM・富士通紛争と日経コンピュータ編集部との関わりを6回に分けて綴ってきた。何が起こっているのか、何が起こるか分からない状況の中、その時々に、もがき、考えながら必死に編集してきたというのが実感だ。第一回に記したように、弊社の雑誌編集の基本方針は、「専門分野の専門家に向け新鮮な情報を提供することで経済・産業の健全な発展に貢献する」であった。当時の日経コンピュータ編集部に、過去形でも現在形でも未来形でもない、原形としての基本方針があったからこそ、乗り切れたのだと思っている。

 最後に、当時取材に応じてくださった方々、日経コンピュータの報道を支持していただいた読者の皆様、そして筆者の無理難題に応えてくれた編集部の面々に深く感謝するとともに、反省点を一つ述べ、締めくくりとしたい。

 それは、一連の記事の中で「知的所有権」という言葉を使い続けてしまったことだ。IBM・富士通紛争にからんで中山信弘東大教授に取材した折、「マスコミは皆、無体財産であるIntellectual Propertyを知的所有権としているがこれは間違いだよ」と指摘されたことを鮮明に覚えている。確かに、ハードウエアや土地といった有体物に関する所有権という概念を、ソフトウエアに代表される無体物に適用するのはおかしい。
 
 ところが中山教授にせっかく指摘していただいたにも関わらず、当時の私はあまり深く考えず、「知的所有権と知的財産権は同じ」と考え、新聞社が採用していた標準表記「知的所有権」を日経コンピュータでも使い続けた。

 現在では、知的財産権という訳語が使われており、知的財産戦略大綱においても「『もの』に関する所有権的発想ではなく、情報の特質を勘案した保護と活用のシステムを構築することにより、知的創造サイクルのより大きな循環につなげるべきである」と書かれている。マスコミ一般の標準表記に反してでも、日経コンピュータは率先して「知的財産権」を使用すべきだったと反省している。

(松崎稔=日経BPソフトプレス社長)

※この特別寄稿は書き下ろしの連載です。

第1回・編集長に就任直後、「秘密契約」問題に遭遇

第2回・秘密契約書のコピーを入手、内容に驚愕

第3回・知的財産権に着目、紛争の全体像を解明

第4回・ついに「裁定」へ、報道の正しさを裏づけ

第5回・異例の情報公開、紛争の全貌が白日の下に