AAA(米国仲裁協会)は1987年9月、米IBMと富士通の紛争の背景・経緯・調停の考え方を詳述した資料を公開した。異例の情報公開により、両社の論点がすべて明らかになった。IBM・富士通の知的財産権問題を追い続けた日経コンピュータの松崎稔・元編集長が入り組んだ問題を整理、総括する。

 AAA(米国仲裁協会)による1987年9月15日の発表は極めて異例なものであった。本来、仲裁は非公開であるにも関わらず、最終裁定に先立って調停の経緯を公表した。しかも16日には、日米衛星通信によるテレビ記者会見まで開かれた。発表された内容は、前回述べたように、IBM・富士通紛争に関する「意見書」と「命令」であった。

 AAAが異例の早期公表をした背景には、IBM・富士通紛争のAAA裁定の帰趨が世界的に大きな関心を集めていたことに加え、互換OSを使っているユーザー企業の不安を早期に解消し、互換OSによる公正なビジネス競争を促す狙いがあった。著作権論議を避けたとはいえ、IBM・富士通の知的財産権紛争に対する現実的解決を見出し、公表に耐える仲裁内容に達したというAAAの自負もあったと思われる。

83年秘密契約に不備、解釈・見解の差が表面化し新たな紛争へ

 20年以上も前のIBM・富士通紛争の事実経緯を知らない読者もおられると思うので、「意見書」に従って紛争の経緯と調停の過程を簡単に振り返っておく。両社の争いがAAAへ持ち込まれるまでの経緯は次の通りである。

(1) IBMと富士通間の争いは、富士通がIBMのOSプログラムを複製し、IBMの知的財産権を侵害したとして、IBMが82年10月に富士通に申し立てたことから始まった。

(2) その後の当事者間の折衝を経て、対価支払いで免責される富士通の指定プログラムをリストアップした「83年和解契約書」と、外部仕様情報(EI)交換に関する「83年EI契約書」が83年7月1日付けで調印され、一応の合意に達した(いずれも秘密契約)。

(3) しかしこの2つの契約書のいずれもIBM側の著作権侵害クレームに対する富士通側の侵害の事実を認めてはいない。

(4) この和解契約に基づきIBMは、富士通の指定プログラム(203種類)の過去および将来の販売、およびその他の使用に関し、富士通に対し免責を与え、すべてのクレームを放棄し、富士通から高額の対価を受け取った。指定プログラムの将来の市販に関しても、対応するIBMプログラムのライセンス料金相当額を6ヶ月ごとに富士通がIBMに支払うことで合意した。

(5) しかし83年契約調印後まもなく、契約の基本的な曖昧さと不十分性に起因する新しい両者間の紛争が表面化した。尊重すべき知的財産権の権利範囲、日米のいずれの知的財産権法が適用されるのか、不十分な記述による保護手続き、EIの詳細な定義とEI利用の対価などに関し、両社の解釈・見解が大きく異なることが明らかになったからだ。両社は紛争打開に向け84年、85年と多大の労力を費やしたが合意に至らなかった。

(6) このため85年7月、IBMは和解契約の正式な紛争解決手続きにのっとりAAAに仲裁の申し立てを行った。

著作権保護の範囲に関する動議はすべて却下、現実的解決探る

 AAAにクレームが持ち込まれて以降、富士通はIBMプログラミング資料に関する使用情報について次のように主張した。富士通が使用した資料や情報は次の6点である。

・著作権保護手続きの取られていなかったバージョンにさかのぼるため公有資料になっているIBM資料
・日米著作権法による保護対象である「表現」に該当しないIBM資料
・83年和解契約とEI契約の意図に外れないEI(外部仕様情報)
・83年和解契約の免責対象となる資料
・83年和解契約の保護手続きにより認められた情報
・標準的なプログラミング技術

 富士通が利用したのは以上の6点に限られており、83年契約または適用可能な知的財産権法の下でIBMの権利を侵害するものではない。また、互換OSを独自に開発するために必要なIBM情報を使用する権利がある。富士通はこのように主張したが、IBMはこれらについてことごとく反論した。

 両社の対立を踏まえ、AAAは当初から、ソースコードレベルの分析が必要となる司法的事実認定のプロセスを避け、IBM互換のソフトを開発するために富士通がIBMプログラム資料をいかに使用できるか、いかなる保護対策が有効か、使用に際する代償をどう決めるか、といった点を明確にしようとした。すなわち、現実的な解決を目指したのである。事実、86年にIBMと富士通から出された略式動議のうち、著作権保護の範囲に関するものはすべて却下された。

 その上でAAAはまず、83年和解契約でリストアップした203種類の富士通指定プログラム(権利侵害の有無は別として、影響を受けた可能性のあるプログラム)以外にもリストアップすべきものがあるとする、IBMのクレームに対して調停した。その結果、86年12月に両社は、295種類のプログラムをリストに追加することで合意。このリストを土台に、83年契約に代わる「ワシントン契約」が87年2月に調印された。

 「ワシントン契約」では、6カ月ごとの支払いに代え、IBMのクレームすべてに対する免責と放棄の引き換えに、富士通は全指定プログラムに対する一括ライセンス料支払いに合意した。同時にEI(外部仕様情報)などのプログラム資料の使用を統制するためのSF(セキュアド・ファシリティ)制度設立をうたい、その具体化に向けて当事者間で交渉努力するよう規定した。

 しかし交渉は実らず、結果としてAAAが87年9月15日付の「命令」として裁定、両社は裁定に従う形で合意に至った。ソフト開発を目的として他社のプログラム資料を調べるために、当事者はSFを設立し、そこで「指示書」に従って情報を抽出できるようにするという「命令」だ。SFを運営するための指示書、ルール、ガイドライン、手続きなども規定した。こうしてコンピュータ産業史最大の係争事件は、解決へ向かい始めたのである。

(松崎稔=日経BPソフトプレス社長)

※この特別寄稿は書き下ろしの連載です。第6回は10月20日に公開予定です。

第1回・編集長に就任直後、「秘密契約」問題に遭遇

第2回・秘密契約書のコピーを入手、内容に驚愕

第3回・知的財産権に着目、紛争の全体像を解明

第4回・ついに「裁定」へ、報道の正しさを裏づけ