ベールに包まれた米IBMと富士通の紛争は、著作権保護の及ぶ範囲、ソフト情報の開示義務、契約上の解釈の3点について争うものだった。日経コンピュータは独自取材を積み重ね、紛争の本質を報道することに成功した。そして、ついにAAA(米国仲裁協会)が裁定を発表する。果たして日経コンピュータの報道は正しかったのだろうか。当時、編集長を務めていた松崎稔氏が自ら、検証する。

 IBMと富士通、日立製作所の間で結ばれた秘密契約とその後の知的財産権を巡る紛争に関する集大成記事『富士通・IBM紛争の核心:ソフト保護の範囲と情報開示義務をめぐって争う』を1987年1月19日号に掲載したことは前回述べた。この記事を掲載したことで、編集長に就任して以来、とりわけ丸秘文書のコピーを入手して以来の重荷と緊張感から幾分ではあったが開放された(丸秘文書については『秘密契約書のコピーを入手、内容に驚愕』を参照)。

 IBM、富士通、日立といった当事者が一切何も公表しない中、ユーザー企業はもちろん、一握りの関係者を除けば三社の社員ですら、82年以降にIBMと富士通、日立の間で何が起こっているのか、実態を把握できなかった。このため83年以降、日経コンピュータの報道が三社の紛争に関する情報を入手する唯一の手段といってよい状況が続いた。それだけにIBMと富士通、日立間の紛争における本誌報道の影響力は多大であり、当然、記事の掲載に当っては信憑性の確認はもちろん、表現にも多大の神経を使わざるを得なかった。

 日経コンピュータ編集部としては、1987年1月19日号の集大成記事をもって、IBMと富士通、日立間係争に関する全体像を解明する取り組みに一つの区切りを付けたつもりであった。AAA(米国仲裁協会)によってIBM・富士通の紛争が、どのような形で最終裁定されるか、といった点はもちろん報道しなければならない。両社間でやりとりされる対価がどの程度のものになるのかなど、興味深い点は残っている。とはいえ、ソフトウエアの知的財産権を巡る重大な論点については、集大成記事で抽出できていた。これに続く報道は、公表されるかどうかは別にして、AAA仲裁裁定の結果そのものでしかない。

 筆者は、AAAによる仲裁裁定が公表に耐えられる裁定内容、広く産業界のコンセンサスが得られる裁定内容になって欲しいと期待した。その思いから、先の集大成記事を次のように締めくくった。

 以上述べたように、まさに今回声明の3つの争点((1)著作権の保護の及ぶ範囲、(2)ソフト情報の開示義務、(3)契約上の解釈問題)が争われているのだ。特に(1),(2)は今後の情報社会発展上どのような形で新たな基盤(世界的合意)を設定すべきなのか、開発者側の利益だけでなくユーザー側の視点をも含めて広く議論すべき本質的問題である。IBM・富士通・日立はもちろん、コンピュータ関係者が広く公的な場でこれらの問題を議論すべき時期にきたといえるのではなかろうか。

「プログラム著作権の保護の及ぶ範囲」の合意形成へ向け、編集の舵を取る

 IBM・富士通紛争のAAAによる裁定が下るまでの間、日経コンピュータ編集部は、より一般的な形でソフト保護のあり方、著作権の保護の及ぶ範囲に関する情報を発信し、知的財産権に関する読者の合意形成を促す方向へと向かった。IBM・富士通紛争の本質がソフトの知的財産権に絡むものである以上、国内外の著作権論議が間接的にAAA仲裁に何らかの影響を与えるだろうことは明らかだったからだ。

 米国は76年と80年の2回にわたり著作権法を改正し、著作権法によるプログラム保護の国際的な流れを作った。日本も85年に法改正し、86年1月から改正著作権法を施行した。しかし86年から87年にかけ、前述のOTA(米国議会技術評価局)レポートが出たこともあり、機能作品であるソフトの保護に、表現を保護する著作権法を適用することの是非を含めた議論が再燃した。著作権によるプログラム保護を前提とした場合でも、プログラムの何が著作権の保護の及ぶ範囲(表現)なのか、法曹界だけでなくコンピュータ業界の間でも解釈・見解は分かれた。

 その一例として、86年8月に、プログラムの「構造」にも著作権を認めるべきだとする、従来では考えられない控訴審判決が米国で出た。いわゆる「ウエラン対ジャスロウ事件」と呼ばれたものである。その一方で87年1月には別の控訴裁判所から、ウエラン対ジャスロウ事件判決に真っ向から反対する判決が出た。米国における意見対立を受け、日経コンピュータ誌は、「構造」も表現として著作権で保護されるべきものなのか、一連の判決をどう評価すべきか、といった点を考えるため、佐野稔弁護士に寄稿を依頼し、『プログラムの「構造」も著作権で保護されるべきか』と題した論文を87年6月8日号に掲載した。

87年9月、AAAが最終裁定へ向けての「意見書」と「命令」を公表

 80年代前半の著作権法改正論議のときとは異なり、IBMと富士通、日立間紛争の本誌報道などもあって、86年以降、多くのコンピュータ技術者・関係者を巻き込んだ形で、ソフトウエアの著作権をめぐる関心が日米欧で高まり、具体的な議論がされるようになった。こうした状況の中、ついに87年9月15日、AAAはIBM・富士通紛争の最終決着へ向けての裁定を「意見書」と「命令」という形で発表した。

 日経コンピュータはすぐさま、87年9月28日号で『著作権論議を避け実践的解決策示す、IBMにソフト情報開示を義務付け』と題して速報し、続く10月12日号で特集『解決へ向かうIBM・富士通紛争』を組み、「意見書」と「命令書」の全文も掲載した。

 この「意見書」と「命令」は、IBMと富士通が83年に合意した秘密協定の不備から発した両社の解釈・見解の溝をAAAが埋めていく過程と、その都度都度のAAA裁定を詳述したものである。87年9月の段階では、「セキュアド・ファシリティ(SF)制度」設立に関する詳細決定や、両社間における支払額の決定を含めた最終裁定には至っていないものの、最終決着に向けた枠組みが示された。IBMと富士通が枠組みに合意したことを受け、AAAは発表に踏み切ったのである。

 「意見書」の中では、紛争の背景と経緯についても述べられている。それは冒頭で紹介した日経コンピュータの集大成記事『富士通・IBM紛争の核心:ソフト保護の範囲と情報開示義務をめぐって争う』で明らかにした内容とほぼ等価であった。これによってIBM・富士通紛争に関して、日経コンピュータが83年以降取り組んできた一連の報道の正しさが、間接的・事後的ではあるものの、当事者によってようやく追認されたと言える。

 「意見書」と「命令」を読み込むと、日経コンピュータの報道に誤りがあったことも分かった。ただし、それらは本質的ではない一部の誤りであった。85年10月に編集長に就任して丸2年、情報社会の発展にかかわる大きな問題で、日経コンピュータは一定の役割を果たすことができた。発表資料を一気に読み、正直、ほっとしたことを覚えている。

(松崎稔=日経BPソフトプレス社長)

※この特別寄稿は書き下ろしの連載です。第5回は10月19日に公開予定です。

第1回・編集長に就任直後、「秘密契約」問題に遭遇

第2回・秘密契約書のコピーを入手、内容に驚愕

第3回・知的財産権に着目、紛争の全体像を解明