ITエンジニアの成長には,技術面だけでなく,精神面でも支えてくれる存在が必要だ。そうした「支援者」や「師匠」のような存在を制度化して,人材育成に役立てるのがメンタリングである。最近,IT企業で普及が進むメンタリングの基礎と実際の進め方を解説する。

 あなたが会社に入ったばかりの頃を思い出して欲しい。

 プログラムの書き方や仕事の進め方をOJTで教えてくれるだけでなく,社会人としての心構えやルールまでを広く教えてくれ,ビジネスパーソンとして成長させてくれた先輩はいなかっただろうか。また,仕事がうまくいかず悩んでいた頃,親身になって相談に乗り,励ましてくれた「心の師匠」のような人はいなかったか。

 そうした「支援者」や「師匠」の存在を制度化して,人材開発や人材育成に役立てる仕組みが「メンタリング」だ。メンタリングは,基本的に「メンター」と「メンティー」という2人のメンバーによって行われる。豊富な経験や高いスキルを備えたメンバーがメンター。メンターから支援を受けるメンバーがメンティーである。メンターは,メンティーの成長につながる様々な支援を一定期間にわたって行う。

 メンタリングは100年ほど前に米国で始まった。地域社会においてドラッグやアルコールなどから青少年を守ろうとしたのがきっかけと言われる。やがて米国の企業は,人材育成におけるメンタリングの効果を認め,30年以上前から取り入れてきた。実際に米国で経営者として成功した人たちの中には,メンターによって自分のスキルやキャリアが大いに高められ,現在の地位を築くことができたと語る人が少なくない。

 日本でもここに来て,メンタリングを活用する企業が目立つようになってきた。例えばNECや日本ヒューレット・パッカードなどのように,ITエンジニアが働く環境を向上させ,能力を最大限に発揮させることを狙いとしてメンタリングを取り入れるIT企業も現れている。

ヒューマンスキルの向上が必要

 なぜ今,メンタリングが注目され,取り組みが広がっているのだろうか。

 その背景には,まず,企業の中でITエンジニアが達成感や幸福感を感じにくくなっているという要因がある。厳しいプロジェクトが続き,モチベーションが低下しているにもかかわらず,誰にも相談できずに悩んでいるITエンジニアは少なくない。また技術やビジネス環境が激しく変化する中で,将来的なキャリア像を描きにくくなっている。そのため,ITエンジニアをメンタル面で支える仕組みが必要になってきた。そこで,浮上してきたのがメンタリングというわけだ。

 またITエンジニアに求められるスキルが多様化しているという要因も挙げられる。ITエンジニアは,イノベーションや価値創造に向けた仕事に挑戦しなければ生き残れなくなってきた。そのためには,リーダーシップやコミュニケーション力といったヒューマンスキルの向上を図る必要がある。同時に,専門領域のみならず,経営や社会情勢など専門外の領域についても幅広い見識と洞察力を身に付けることが求められている。それには,画一的な座学教育やアドホックなOJTでは対応できないのだ。

 企業はメンタリングを導入することで,経験やノウハウを継承するだけでなく,優秀なITエンジニアの流出の防止や社内の活性化にもつなげられる。

 もう1つ重要なのが,支援する側のメンターにとっても,様々なメリットがあることだ。例えば後継者を育成できるだけでなく,学習や成長への意欲が高い若手と接することで,新たな学習の機会を得たり,自らのモチベーション向上にもつながる(図1)。

図1 メンタリングのメリット
メンタリングは支援を受けるメンティーのみならず,企業や支援をする側のメンターにとっても様々なメリットがある

ゴールは「全人格的な教育」

 もともと「メンター」という言葉は,トロイ戦争後のオデッセウス王を歌ったホメロスの叙事詩「オデッセイア」の登場人物である「メントール(Mentor)」に由来する。

 オデッセウス王の僚友だったメントールは,王の息子テレマコスの教育を託された。メントールは王の期待にみごとに応え,息子の“よき指導者”,“よき支援者”として責務をみごとに果たした。ここから,「メンター(Mentor)」と,その対である「メンティー(Mentee)」という言葉が生まれた。このエピソードからもわかるように,メンタリングは本来,小手先のスキル教育ではなく,全人格的な総合力向上をめざした教育を意味する。

 米国の心理学者K.クラムは1980年代にメンタリングの機能を体系化し,大きく2つに分類した(図2)。第一に挙げられるのが「キャリア的機能」である。つまり,メンターはメンティーに活躍の場を与え,技術スキルやノウハウを授け,トラブルに直面したときには一緒に解決策を考える。それを通してメンティーの昇進や昇格を後押しするというものだ。キャリア的機能を実現する手法としては,いわゆるOJTやコーチングも含まれる。

図2 メンタリングの機能
米国の心理学者,K.クラムが整理した内容をもとに,メンタリングが一般的に持つ機能をまとめた。メンタリングは,キャリア開発を支援する「キャリア的機能」と,精神的な支援をする「社会・心理的機能」を合わせ持つ

 そして第二の機能が「社会・心理的機能」である。メンティーはITエンジニアである前に生身の人間だ。新しいスキルを身に付ける過程で,ストレスや不安を感じることもあるだろう。メンターはそれを取り除く支援をしたり,様々な障害への対応策をアドバイスするのである。

 このように,キャリア開発だけでなく,社会的,精神的な面での支援を含む点がメンタリングの大きな特徴だ。そのため,メンタリングにおいて「カウンセリング」は重要な要素を占める。これが技術スキルやノウハウの継承を最大の目的とするOJTとの大きな違いである(表1)。

表1 OJTとメンタリングの違い
OJTは一般的に同じ組織内の上司や先輩が部下や後輩に対して行い,業務の成果を上げることを目指す。メンタリングは組織にとらわれないメンバー間で行われ,キャリア面に加えて社会的,精神的な面での支援を行う

大浦 勇三(おおうら ゆうぞう)/大浦総合研究所 代表,LLPモバイル 代表
大浦 勇三(おおうら ゆうぞう) 早稲田大学卒業,筑波大学大学院修了。アーサー・D・リトル 主席コンサルタントを経て,現職。 経営戦略,IT戦略,人材教育・育成,プロジェクトマネジメントなどのコンサルティングを行う。 主な著書に,「業務改革成功への情報技術活用」(東洋経済新報社),「IT技術者キャリアアップのためのメンタリング技法」(ソフト・リサーチ・センター),「イノベーション・ノート」(PHP研究所)などがある
次回に続く