ビフォー・ アフター

 富士ゼロックスは2003年10月から、グループを挙げて生産機能の中国シフトを進めている。数年以内には中国での生産比率を全体の90%まで高める方針だ。現在までに中国での比率は70%以上になっている。このままいけば、将来的には国内の生産比率は10%以下に下がってしまう。年率15%の割合で製品価格が下落するといわれるデジタル複合機の世界で勝ち残るには、値下げスピードに追随できるコスト体質を身に付けなければならない。中国とのコスト比較で見劣りすれば、国内生産は計画以上の縮小も考えられる。

 ゼロックスの国内工場や生産子会社は生き残りをかけて、2004年秋からトヨタ生産方式に取り組み始めた。著名なコンサルタントを工場に迎え入れ、生産革新に挑んでいる。モデル工場になった鈴鹿富士ゼロックス(三重県鈴鹿市)はこの1年半で生産性が倍増し、在庫が半減するなど大きな効果が出始めている。


一直線に生まれ変わった生産子会社である鈴鹿富士ゼロックスの生産ライン
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 「私たちはこれから先、どうなるのでしょうか?」

 2003年10月、富士ゼロックスの国内工場で働く作業員たちは、かつてない不安に襲われた。

 ゼロックスはグループの生産量の90%を中国の工場に移管する決断を下した。この時点で生産量の60%は上海との工場に移っていたが、中国シフトを加速することでコスト競争力を高めようとした。同社は競合企業と比べて、人件費が安い中国や東南アジアなどでの生産で後れを取っていた。

 数年以内に国内生産比率は全体の10%まで下がる。国内工場の閉鎖や縮小は避けられない。ゼロックスの主力工場だった神奈川県の海老名事業所は既に生産機能の大部分を中国に移しており、一部を生産子会社の鈴鹿富士ゼロックス(SFX)が引き受けた。

主力製品だけは国内に残したい


●中国への生産移管を進めるが、残る国内工場はトヨタ生産方式で作業効率を高める
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鈴鹿富士ゼロックスの塚本卓三社長
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 キー部品の生産だけは国内に残したい――。SFXの塚本卓三社長や生産統括本部長の早川公人取締役は、毎日そのことを考えていた。このままでは中国の勢いに押され、現場の士気が下がってしまう。

 そんな時、同じ生産子会社でゼロックスが2001年10月にNECから買収した新潟富士ゼロックス製造(新潟県柏崎市)が、2002年7月から取り組む生産革新の話を耳にした。2人は早速、新潟に飛んだ。

 そこで塚本社長と早川取締役はトヨタ生産方式を目の当たりにする。「目からうろこが落ちた。生き残りをかけた取り組みはこれしかないと思った」(塚本社長)

 1982年に設立され、かつては最先端の工場として表彰もされたSFXには、ものづくりのプライドがある。それでも「今までと同じことをやっていたのでは国内にとどまれない。全く違うやり方で工場を変える」。塚本社長はそう考えていた。それにはトヨタ生産方式が最適であると思い至った。

 新潟富士ゼロックスを指導していたのは、岩城生産システム研究所(埼玉県東松山市)のコンサルタントである岩城宏一代表だ。同氏はトヨタ生産方式の生みの親である大野耐一氏から直接手ほどきを受けた人物として知られている。

 塚本社長は早速、岩城氏と面談。「企業は社会貢献のためにある。国内で部品を調達し、国内で組み立て、国内で売る。そのためなら力を貸しましょう」と岩城氏に念を押された。塚本社長は「この言葉に共感した」と振り返る。

 2004年9月にSFXにやって来た岩城氏は現場を見るなり、「今すぐラインを変えてくれ」と言ったという。これには塚本社長以下、その場にいた全員があぜんとした。

 長年現場にいた早川取締役にしても、ライン変更はあらかじめ図面を引き、休みの土日に動かすのが「常識」だった。ところが岩城氏は「今すぐ変えてほしい」と真顔で繰り返す。SFXはいそいそとレイアウト変更を始めた。