「破格の価格性能比を備えたワークステーション」─。日経バイト1986年11月号の記事では,ソニーが開発した32ビットのUNIXワークステーション「NEWS(ニューズ)」をこう表現している。当時,米Sun Microsystems社のワークステーションが1000万円以上だったのに対し,NEWSの最上位機種は275万円という低価格で市場に衝撃を与えた。開発プロジェクトを立ち上げたのは,ソニー・インテリジェンス・ダイナミクス研究所 代表取締役の土井利忠所長。わずか半年で作り上げたNEWSは,「一人が1台ずつ持てる高性能なワークステーション」という技術者の欲しいものが形になったマシンだった。

 1985年ごろ,ソニーはMCOA(Micro Computer Office Automation)事業部でコンピュータを開発していた。当時ソニーのコンピュータ事業は連戦連敗状態。土井氏は「他社に先回りしなければダメだ。MCOA事業部のあらゆるプロジェクトで使えるコンピュータを最先端の技術で作ろう」と考えた。そのため1985年4月にMCOA事業部から研究所へ移った。

 研究所に移る際,土井氏はMCOA事業部からコンピュータに詳しい若手の技術者を4人引き抜いた。そこに研究所のメンバーを加え11人の技術者とともに,「ICKI(いっき)プロジェクト」を1985年9月に立ち上げた。目指すは,さまざまな用途に共通して使える,32ビットCPUを使ったコンピュータだった。

エンジニアが作りたかったマシン

 ところが,最初からICKIプロジェクトは方向性の変更を迫られた。技術者たちが「一人1台使えるワークステーション」を作りたいと言い出したのだ。「これまで同様に失敗するかもしれないから,後で自分たちが使えるような試作機を作ろうと考えていたようだ」と土井氏は言う。こうしてICKIプロジェクトは,ネットワークを通じた共同作業を可能にする高性能なワークステーションを作ることになった。

 次にOSの選択でも考えが分かれた。土井氏は「System V」というUNIXを採用しようと考えていた。当時UNIXは,米AT&T社が製品化したSystem Vと,同社が以前に配布していたUNIXを基にカリフォルニア大学バークレイ校で開発された「バークレイ版(BSD)」の二つの流れがあった。土井氏は「商用のOSでサポートもある。企業が使うのに向く」とSystem Vを推す。だが,1985年時点ではSystem Vが独自のネットワーク機能を搭載していたのに対し,バークレイ版はTCP/IPを実装していた。技術者たちは機能が豊富なバークレイ版を推した。結局,土井氏が折れて,技術者の意見を通した。

 ようやく方向性が決まり,ハードの設計が始まった。当時出回り始めたばかりの32ビット・マイクロプロセッサ「68020」を二つ搭載した。一つをメインのCPUとして,もう一つをI/O制御に使った。「I/O用のチップセットを作っている時間がなかったので,CPUを使った。試作機を作っているころはCPUは高かったが,製品出荷時には価格が下がると踏んだ」。そして,1枚の基板上にすべての回路を収めて小型化を図った。

 1985年12月ころに基板が完成し,翌年3月には試作機が出来上がった。プロジェクト開始からわずか半年で完成した。

 だが商品化の壁は厚かった。事業部が商品化を拒んだのだ。そこで1986年5月,土井氏は自ら社内ベンチャーを立ち上げ商品化に向け動き出した。同年10月に開催されるデータショーの数週間前に発表しようと考えていた。だが,発表直前になって今度は通産省(当時)から「待った」がかかった。通産省が,そのころ推進していた「Σ(シグマ)プロジェクト」への影響を懸念したのである。「将来はΣOSを搭載するなどと説得して,ようやくデータショーでの発表にこぎつけた」。

 パソコン並みの小ささで高性能,最上位機種で275万円という低価格のNEWSはデータショーで話題となった。1987年1月から出荷を始めた後,数ヵ月後には国内でワークステーションのトップシェアを獲得。順風満帆かに見えた。

ソニー製品の技術の基礎を築いた

 しかし,次第にNEWSの勢いはかげっていった。特にSun社が急速にシェアを伸ばし,対抗し切れなかった。

 その後ソニーでヒットした製品を世に送り出したキーマンには,NEWSに携わった人が多いと土井氏は言う。「VAIOやAIBO,プレイステーション 2などソニーで花が咲いた製品の基礎となる技術がNEWSで培われた。そして,ソニーがAV機器の会社からコンピュータや通信分野も扱える会社に成長できたのもNEWSがきっかけだった」。