NSRI(USA) 林 光一郎

 社会人大学院入学から2年が過ぎ,ようやく座学が修了しました。そんなある日,学部生が集まる懇親会に出席する機会がありました。そこで,入学手続きの際にお世話になった教授と再会。「座学を終え,後は論文を残すのみです」と挨拶したのです。すると教授はニヤリと笑い,「ようやく楽な方の半分を終えたという訳ですね。これからが本番ですよ。頑張ってください」と激励の言葉をかけてくれました。改めて論文の大変さを感じ,身が引き締まる思いがしました。

 今回は,修士論文の目的と,私が通うニューヨーク大学(NYU)の社会人大学院での修士論文の扱いについて紹介したいと思います。

修士論文は学問への貢献を目的とした研究者としての作業

 米国の高等教育事情に詳しい方の中には,この連載を読んで「社会人大学院で論文を書かせるってどういうことだ?」と疑問に思われた人もいるかもしれません。また大学時代に卒業論文が課されておらず,修士論文といわれても今一つ具体的なイメージがつかめない,という人もいるでしょう。そこでまず,修士論文とは何ぞや,というところから説明したいと思います。

 学部の卒業論文や大学院の修士論文は,学術論文の一種です。学術論文ということは,今までに学んできた知識を用いて,既存の知識の体系に何か新しいものを付け加えることが必要となります。答が既に分かっている問題をいくらきれいに解いても,それは学術論文にはなりません。学部生や大学院生が書く論文なので,たいした発見があるわけではありません。多くは「ある仮説を条件を替えて追試し,正しいことを確認する」ことを行うわけです。こういった取り組みやすい内容で論文を書くことで,

 1)先行研究をきちんと調査し,それを踏まえて新しい知識を提供できる
 2)学術研究に求められる厳密な方法を理解し適用できる
 3)研究に必要な倫理基準を理解し実践している

 といった,学部や修士課程を終えた研究者として必要な知識・能力を持っていることを証明するためです。

 さて,修士論文が学問への貢献を目的とした研究者としての作業であるとするなら,「実務者教育ではそんな本筋から離れたことは不要だ」と思われる人もいるでしょう。実際,米国ではMBAやロースクールなどの実務者養成を目的とした大学院では,修士論文が課されることはありません。学生が独自に学術論文として発表したいテーマがある,あるいは博士課程に進む場合に,教授に相談の上,提出するという程度の扱いなんです(多くのMBAコースでは,卒業に必要な単位として課すことはできるようです)。日本でも専門職大学院では,修士論文は課されていませんよね。

NYUでは修士論文を課す目的

 フルタイムの大学院でも学生に課さない修士論文を,あえて課すNYUの社会人大学院の目的は何なのだろう。入学前に疑問に思った私は,同大学院の案内文を読んでみました。そこには「実業の世界の中で取り扱うことになるレポートの作成と正しく行うための知識と能力を身に付けること」と書かれていました。

 またNYUの社会人大学には,通常の科目の2倍の長さを持つ論文作成指導科目が含まれているんです。そこでは,担当教授がこのコースのために書き下ろした教科書が使われます。論文の書き方に関する本はガイドブックのような構成になっていることが多く,私が知る限り,きちんとした教科書になっているものは日米共にほとんどありません。前述したように,修士論文はあくまで研究者育成過程の一環として課されるもの。論文の書き方だけを切り出して授業にする意味が,普通は無いからでしょう。

 これまで受講した座学の科目の中には,修士論文を意識した授業は特にありませんでした。ゼロから始めて約6カ月間で修士論文を書くのです。しかも論文指導は通信教育という,かなり挑戦的な方法で作成します。これから始まる具体的な指導はどのように行われるのか,怖いながらもワクワクした気持ちで一杯です。

 私は修士論文のテーマとして,「海運用のコンテナへの無線ICタグの適用」を考えています。私が興味を持って勉強している分野であることが最大の理由ですが,実はほかにも理由があるのです。実はこの分野は実務家の間で話を聞いたりするといろいろ面白いトピックがあるのですが,業界紙の記事はベンダーの主張が中心で,取り上げ方が偏っているように感じていたからです。また,学際的なテーマであるためなのか,学問の世界では正面から取り上げられていないようです(私が今まで調べた範囲ではありますが……)。もし私がこの分野で今まで調べた内容を学術的な形で発表できれば,それを基にして議論が深まると思いますし,私も今まで以上に深くかかわることができるようになると思うのです。その意味では学術の世界へのアクセスの鍵を与えてくれるものだ考えています。

 もちろん,論文執筆が完了したときには,エンジニアとしてのキャリアアップという面でどういう意味があるのか,そしてかかった労力や時間に見合った見返りがあるのか,論文執筆の過程の中でじっくり考えていかなければならないでしょう。そしてそれをみなさんに報告したいと思っています。

 次回は,論文で使う英語の書き方を指導する授業内容を紹介します。修士論文を書き始めると任意で受講できるこの科目は,私にとっては大学院コースに進んでから始めてのバーチャルではない実際の教室での授業なんです。


トーストもせずバターも塗らないパンに,小振りのソーセージを挟むニューヨークのホットドッグ。これに酢漬けキャベツや玉葱のトマト煮などを,好みによってトッピングされる。ホットドッグ2つにパパイヤジュースを添えたものが,ニューヨーカーはもちろん,私もお気に入りの軽食です(セットで2.75ドル)。
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 林 光一郎(はやし こういちろう)
NSRI(USA)

1991年,京都大学農学部卒業後,日本郵船に入社。関連IT企業のNYKシステム総研への出向を経て現職。現在はニューヨークにあるNSRI(日本郵船グループ)社内のアプリケーション開発プロジェクトに従事しながら,ニューヨーク大学大学院Management and Systems学科に在学。情報処理技術者試験に関する複数の著書のほか,「情報処理技術者用語辞典」(日経BP社)のデータベース項目の執筆を担当。日本システムアナリスト協会・中小企業診断協会会員

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