ファイル共有は社内LANでは必須の機能だろう。ネットワークOSのなかでも,高速で安定した動作を実現して人気を博したのが米Novell社のNetWareである。Novellの総代理店だったワールドビジネスセンターで営業促進課長を務め,ユーザーに一番近い立場にいた人物の一人がパケットフロント日本駐在員事務所の佐藤元嗣代表である。NetWareを広めるため,異機種のコンピュータを次々に対応させユーザー各社に導入していった14年間を振り返ってもらった。
佐藤氏がNetWareと出会ったのは1981年のこと。このときは「売ろうとは考えてなかった。LANを研究する目的だった」。NetWareを開発した米Novell社(当時の名称はNovell Data Systems社)は23人ほどの小さな会社であった。8ビットのパソコンを売っていたが,パソコン同士をつなげるためのユーティリティ・ソフトとしてネットワークOSも販売していた。それがNetWareである。Novellを選んだのは,「LAN関係者の間ではSupersetとして知られていた米Bringham Young University出身の4人の優れたエンジニアがいた」からだ。
ファイル・サーバーとして動作することにも魅力を感じていた。NetWare以前はデータの共有を「ディスクの共有」と考えるメーカーが多く,製品としては共有ディスクという形で売られていた。「NetWareはディスクの中にあるファイルを共有するという発想だった。初めて,ファイル・サーバーという呼び方をした製品だったと思う」と佐藤氏は振り返る。
業務用コンピュータを次々に接続
NetWareに日本で最初に対応したのは,三菱電機の「MULTI16」という16ビットのパソコンだった。1985年のことである。「日本でビジネスユースの16ビット・パソコンといえばMULTI16しかなかった。三菱電機に報告したら興味を示し,NetWareを拡販の目玉にした」。
翌年の1986年,日本初のユーザーとして三菱電機の京都製作所がNetWareを導入し,端末16台をNetWareサーバーに接続した。サーバーとパソコンを1対1でつなぐ,スター型と呼ぶ構成だったため通信速度が速かった。
その後,ユーザーから希望のあった機種を対応させていった。IBMの5550,富士通のFM16β,NECのPC-98をそれぞれNetWareの端末に仕立てた。サーバーも当面は専用機を使っていたが,通常のパソコンで利用できるようになった。各PCに対応するため,LANカードのドライバやNetWare本体を移植した。基本的に移植作業はワールドビジネスセンターが担当し,Novellの協力を得て完成させた。
Novellの日本法人ができたのは,佐藤氏が日本にNetWareを導入してから10年ほど経ってからだった。この10年間で相当のノウハウがたまっていたという。
性能と安定の評価は変わらず
佐藤氏は「高速性を実現する数々のテクノロジと,アーキテクチャのコンセプトが初めからうまくできていた」とNetWareを評価する。例えば高速化のため,ディスクにアクセスするときにヘッドが移動する距離を最小にする「エレベータ・シーキング」という技術を導入した。他のネットワークOSより一段高速だった。
NetWareはNetWare/Sから始まり,搭載するチップから名称をとりNetWare/68,/86,/286,/386と進化していった。NetWare/386の次はNetWare3.0というふうにバージョンで呼ぶように名称を変えた。
1992年,NetWare4からは,ディレクトリ・サービス(Novell Directory Service)という新たな機能が導入された。部署やグループの情報などリソース管理が簡易になった。だが,これは情報システム部にディレクトリの概念と使い方を理解してもらう必要があった。このため「リセラーに向け,トレーニングなどそれまでとは異なるプロモーションが必要だと主張した。だが,日本のノベルとは考え方が異なっていた」。こうして佐藤氏はNetWareとのかかわりを絶った。
現在はNetWareにまったく携わっていないが,今でも「信頼性はWindows NTよりも格段に良い。現在もNetWareが最強のネットワークOSだと思っている」という佐藤氏の考えは変わっていない。