今やCDは当たり前の存在だ。音楽を聞く,ソフトウェアをインストールするなど,日常生活のいろんな場面で目にする。さぞかし画期的なアイデアとして堂々と開発されていたのだろうと勝手に予想していたが,ちょっと様子が違った。CD開発は社内のなかではあまりおおっぴらにできたわけではなかったという。第三回目の技術再発見は,CD開発の責任者だったソニーの中島平太郎氏に,開発の経緯を聞いた。

 中島氏はソニーに入社する前に,NHKの技術研究所でデジタル録音機を研究していた。PCM(Pulse Code Modulation)録音機というものだ。当然ソニーに移ってからもデジタル録音の研究に取り組むつもりだった。だがソニーのオーディオ事業はアナログ中心。デジタル記録は歓迎されなかった。録音に対する考え方が違っていたからである。中島氏がソニーで音響事業部長を務めていた当時の会長である井深大氏が,根っからのアナログ主義者だったのだ。

 そこで,中島氏は研究グループから有志を募り,こっそりデジタル録音機を試作してもらうことにした。もちろん,中島氏は音響事業部長であるから表向きはアナログ機器を作り,本社の目に触れないようにデジタル記録の研究に取り組んだ。「本社と技術研究所の距離が口を挟まれない程度に離れていたことが良かった」と中島氏は笑う。

 その後,実験を重ねて完成度を上げてデジタル録音機の開発を公のものとし,出来上がった試作機を小型化していった。そして1977年9月に,記録媒体に磁気テープを使う「PCM-1」(48万円)というデジタル録音機を売り出した。

ディスクを使ってデジタル記録

 次に,中島氏はディスクを使ったデジタル記録に目を向けた。いわば,LPレコードのデジタル化である。ちょうど他社もディスクを利用したデジタル録音技術「DAD(Digital Audio Disc)」の研究を進めていた。

 ソニーがデジタル記録のディスク開発に取り組んで2年ほどたった頃,同じくDADを開発中の蘭Philips Electronics社(当時。現在は蘭Royal Philips Electronics社)が技術を売り込みにやって来た。「PhilipsはPolyGram,ソニーはCBS・ソニーレコードというレコード会社をそれぞれ子会社に持っていた。両社をあわせれば60%ほどのシェアを獲得できる。また,当時持っていた技術から見てPhilipsが有力だった」。中島氏はPhilipsとの共同開発を決断した。

 開発で特に大変だったのは「まず,CDのコンセプトが両社で違っていたこと」。コンセプトの違いとは,音質へのこだわりの違いだ。「ソニーは,クラシック音楽の微妙な違いも分かるくらいの高品質な録音ができるものを目指した。一方のPhilipsは,自動車の中で聞いたりするカジュアルなものを想定した。だからアナログのテープよりも音質がよければいいという考え。このコンセプトの違いは最後まで尾を引いた」。例えば,デジタル化するときのビット数(量子化数)を14ビットにするか16ビットにするか,ディスクの大きさを直径11.5cmにするか12cmにするかという点で議論が分かれた。結局は,高品質なものに使える現在の仕様(16ビット,直径12cm)に落ち着いた。

 もう一つ,「得意な技術がそれぞれ違うので,技術のレベル合わせが必要だったこと」でも苦労した。この点については,「3カ月間,技術者を交換してレベル合わせをした」ことで解決できた。

LPにはないファンを生み出した

 苦労して出来上がったCDについては,「ここまでコンパクトで,使い勝手が良く,寿命が半永久的。これで製品として受け入れられないはずはない」と中島氏は自信満々だった。CDを規格として認めてもらうために,デジタル・オーディオの標準化団体「DAD懇談会」に持っていった。突然のCDという規格の提案に,DAD懇談会は大変な騒ぎになった。だが他社に有効な対抗案がなく,CDは承認された。そして1982年10月1日,CDプレーヤ第一号機「CDP-101」(16万8000円)が登場。売り上げも好調だった。

 中島氏は「CDは周波数の上限が20kHz,ダイナミック・レンジが98dBという割り切った技術だ。この割り切りをわきまえて,当時音楽で主流だったLPよりも小さくコンパクトに,使い勝手を追求した。LPにはなかったファンを掘り起こしたことで一つの文化を作り上げた」と振り返った。