1980年代後半から1990年代前半まで,パソコンといえばNECのPC-98シリーズ。編集部の面々に聞いても初めて触ったパソコンがPC-98や98互換機だったという声をよく聞く。PC AT互換機からパソコンに触れた私が不思議だったのは,その互換機をセイコーエプソンしか作っていなかったことだ。セイコーエプソンのPC-286は,事実上NECの独占状態だった日本のパソコン市場の転換点となった。そして,ユーザーに新たな選択肢をもたらした。第2回目の技術再発見では,98互換機「PC-286」の責任者の一人,当時の電子機器事業本部長を務めていたセイコーエプソンの木村登志男代表取締役副社長を訪ねた。

 「国民機」。今回初めてこの言葉を耳にした。セイコーエプソンが98互換機のキャッチフレーズに使っていた言葉だ。「当時PC-98用のソフトは1000本近くあった。これは国民の資産。互換機があれば,もっと活用できる」との思いからだ。

 でも,ただの互換機ではダメだ。本家のマシンよりも光る何かが必要だった。「セイコーエプソンの98互換機が受け入れられたのは,ユーザーが欲する機能を本家のPC-98よりも先に搭載していったから」。当時の広告や記事で,同価格だが互換機の方がスペックが高いのを見ると,互換機作りにかけた努力が感じられた。

 セイコーエプソンは,PC-98よりも(1)処理が高速,(2)ASICを開発して基板をコンパクトにし筐体を小型化,(3)安価,という3点を特徴にした。最初のPC-286の価格は本家よりも3割ほど安い35万7000円。ただ,すぐにNECもエプソンよりもスペックが高い製品を投入し,抜きつ抜かれつの状態に。「互換機はPC-98に刺激を与える存在になった」。

 PC-98互換路線を決意したのは,欧米で出荷したAT互換機が意外に好調だったからだ。「1983年頃に,QX-10という独自規格のパソコンを発表したが売れ行きは芳しくなかった」という失敗を経験した。ところが,「次にAT互換機を欧米向けに出荷したら,これが実によく売れた。1986年に米国に視察に行って,パソコン事業もいけるんじゃないかと思い始めた。日本でやるなら,市場独占状態のPC-98の互換機しかなかった」。

大きな壁,著作権問題をクリア

 だが98互換機は簡単じゃなかった。開発時には二つの壁があったという。一つが,IBMのパソコンとは違ってPC-98の仕様が公開されていなかったこと。もう一つが,開発したBASICがPC-98の著作権を侵害してしまったこと。このため最初に発売しようとしていたPC-286は販売差し止めになってしまった。「互換性をとろうとすると似てしまう部分はある。PC-98に触れないようにしてプログラムを書いた」が,BASICに関しては著作権問題をクリアできなかった。そこでBASICを格納したROMの搭載を取りやめて出荷にこぎつけた。

 ほかにも販売するときは,プリンタのおかげで家電量販店のチャネルはあったものの,本家PC-98の手前,互換機は売ってもらえないことも多かったという。そんな苦労の末,1987年秋に出荷した第2弾の「PC-286V」が大ヒットした。

本家にはない独自性を追求

 木村氏の印象に残っている機種は,ラップトップ機「PC-286L」とWindows対応の「PC-486GR」。どちらとも当時本家にはなかった独自性を持っていた機種だ。背景が青い液晶ばかりのラップトップ機に,白黒液晶を初めて搭載して文字を見やすくしたものがPC-286Lだった。デスクトップとも完全互換を実現した。PC-486GRの方は,高解像度モードを搭載し,Windows3.0のウィンドウの中にMS-DOSを表示できるようにした最初の機種。当時PC-98ではWindows3.0上でMS-DOSアプリケーションを立ち上げると画面全体が切り替わった。「当たり前のことを本家よりも先に実現したことがユーザーに受け入れられた」と言う。白黒液晶にウィンドウ表示,今から見るとピンと来ないが大事な技術がこの時に実現されていた。

 「98互換機を販売したのは7年間ほどだったが,日本のパソコン市場に刺激を与え続けた」と木村氏は語る。本家PC-98に対して「ここを直したい」とか「この機能が必要だ」という“ダメ出し”をしたのが互換機といってもよいだろう。その意味では日本のPC市場が発展したのは98互換機のおかげかもしれない。