DOS/Vといえば,パソコンを使う人なら一度は見聞きしたことがあるだろう。いろいろ調べてみたら,DOS/Vとはいわゆる標準的なパソコンであるIBMの「PC AT互換機」に対応するOS。特別なハードウェアを使わずに日本語表示ができるというのがミソだという。DOS/Vを開発し,世に送り出した“生みの親”である日本IBM 開発製造担当の丸山力取締役副社長に話を聞いた。

普及のためのインフラ作りも成功

 DOS/Vが登場したのは1990年。今やデスクトップなら数万円で買える。ところが当時は30万円くらいもしたそうだ。しかも国産パソコンは米国製より高かったという。日本語を表示するのに,余計なお金がかかるのだ。日本語表示のために,パソコンメーカーはそれぞれ独自の設計をしていた。

 当時IBMでは2種類のアーキテクチャのパソコンを作っていた。一つが日本語表示用のものだ。「ハードウェアのアーキテクチャが違うと,同じソフトを移植しても機能は90%くらいしか使えないし,バグもあった」という。そこで丸山氏は「いつかは米国のアーキテクチャでパソコンを統一したい」と考えていたそうだ。その頃,日本語専用の表示モード(キャラクタ・モード)を使っていた。それ以外はグラフィックス・モードで表示する。そこに「キャラクタ・モードなしで日本語を表示して快適に動かせる技術がでてきた」。つまりOSだけで日本語を表示できるようになったのだ。

 驚いたのは,画面表示サイズが重要なポイントだったこと。DOS/Vの「/V」はVGAを意味する。「一時,日本語表示のために計算上738×525ドットという液晶パネルを使う機種を作ったが,歩留まりが悪くて結局ダメだった」という苦い失敗が効いている。特殊な解像度だと,ソフトウェアだって揃わない。丸山氏は「ソフトウェアがハードウェアに合わせるのではなく,その逆でハードウェアがソフトウェアに合わせるべきだと確信した」と言う。

 技術は完成した。次がDOS/V普及のための仕掛けだ。「OSを解説した本や使い方を周知させる雑誌,周辺機器を充実させることが必要だった」。そこで日本IBMがとった作戦はこうだ。まず,パソコン雑誌「DOS/V magazine」を作ってもらった。なんと,売れるまでは「日本IBMが買い支えた」。周辺機器を増やすための努力もした。その頃はPC-98シリーズ用のプリンタやネットワーク・カードが主流。DOS/Vの周辺機器が秋葉原でせっかく棚に置かれても,売れない製品は後ろに引っ込められてしまう。「PC-98用のプリンタをDOS/Vと互換性を持たせて,PC-98対応と書いてある値札にDOS/V対応という文字も付け加えた」。

 DOS/Vの知名度を高める点では,台湾などから安いパーツを買ってきて自分で組み立てて秋葉原で売るという“ショップブランド”を手がける人々の存在が大きかったという。追い風も吹いた。米Microsoft社のWindowsだ。Windows3.0をDOS/V上で動かすと,当時市場ナンバー1だったPC-98上で動かすよりも快適に動いたし,高解像度版も安価に入手できた。

 さらにOADG(Open Architecture Development Group)というコンソーシアムを設立し,DOS/Vの仕様を公開した。他社にも積極的に「DOS/Vパソコン」を作ってもらうためだ。こうして日本のパソコン市場に広まり,対応するソフトウェアもたくさん出てきた。  当時の奮闘を振り返って「とにかく本当に成功するのかと思いながら頑張っていたから,勝利気分などなかった。ただ,故郷の徳島の本屋にDOS/Vの本が置かれていたときは本当に嬉しかった」と丸山氏は微笑む。

 生みの親から見たDOS/Vとは何だったのか。「DOS/Vが開発され普及したことで,日本のパソコンは世界から取り残されずに済んだ。歴史的なOSだ」と丸山氏は結んだ。