京セラが日本IBMから同社野洲事業所の土地と建物を買収すると発表した。だが、京セラの稲盛和夫名誉会長が、退任に伴う退職慰労金6億円全額を母校鹿児島大学などに寄付するというニュースバリューには勝てず、ほとんど報道されずじまい。そのため、野洲工場に10年以上も務めた元幹部でさえ売却を知らなかった。「時の流れの音がする感じだ。米IBMのポケプシー(ニューヨーク州にあるメインフレームの中心工場)には絶対に負けるな、と技術者たちが額に汗した場所がなくなった。寂しい限り」と元幹部は話す。

 日本IBMや富士通とメインフレーム覇権を競った日立製作所の元幹部も感無量だという。「野洲と富士通の沼津、そして日立の神奈川は最新鋭の設備を備えた日本のコンピュータの象徴的な工場だった。ポケプシー工場を目標に、3工場間で品質や歩留まりなどを競いながら、名機を世に送り出してきた」。

 しかし、野洲工場は既に10年も前に、米IBMのルイス・ガースナー前CEOのグローバルという名の“適材適所”戦略により、メインフレーム生産の火を落としている。欧米への輸出機を含め90年代後半に年間4000億円強のメインフレームを作っていた富士通沼津工場も時の流れに勝てず、ハードの生産を中止した。今では、一部のソフト開発と社員教育の場になっている。現在でもメインフレームを生産しているのが日立の神奈川工場だ。富士通と同じか若干上回るメインフレームの生産額を誇ったが、日立ブランドに加え期待したIBM向け中型メインフレームのOEM(相手先ブランドによる生産)がさっぱりで、2005年度は富士通同様390億~400億円のメインフレーム生産見通しである。90年代後半の10分の1に落ちている。

 日本IBMの野洲工場の竣工は1971年だ。まずプロセッサやI/O用のプリント基板を作ることから始まった。本格的なプロセッサ生産は77年発表の大型機3033/3032/3031から。ポケプシー工場と同時の78年4月に四国電力に向け3033を初出荷した。米本国に遅延なく出荷できたのは野洲工場の高い技術力のたまものだ。出荷直前には本体だけで10億2000万円もする3033が40台ほど並びフロアーの4割を占拠。その様は壮観。3033の主記憶は8Mバイト、性能は4.8MIPSである。

 野洲が最高潮だったのは81年出荷の308Xから3090、9021へと続くECLプロセッサ時代。この時分には3380/3390大型ディスクの心臓部HDAから完成品の製造までを藤沢工場から引き継いだ。308XからはTCM(熱伝導モジュール)と言われるプロセッサモジュールを生産。続いてメモリーチップに着手し、文字通り半導体からプロセッサまでの世界で唯一のコンピュータ一貫生産工場として野洲は絶頂期にあった。現在の天皇を含め、累計20万人弱が訪れた。特に営業は毎日のように、半導体から最終製品までの生産工程を「コンピュータの基礎知識」というプログラムで案内した。野洲に来ればコンピュータが分かったのである。

 しかし、サーバーの台頭に伴うメインフレームのCMOSへの切り替えで野洲の主力はノートPC用TFTパネル生産に切り替わった。プロセッサ本体やディスクがなくなり、半導体は敷地3分の1と共にエプソンに、TFTは台湾のチーメー電子に、プリント基板は京セラに、最後の有機ELはチーメーおよび米IBMから京セラに切り売りされ、IBMは店子14社を含めた土地建物の管理会社的存在になってしまった。そして今回、野洲の残り3分の2(約20万平方メートル)を京セラに明け渡す。京セラは有機ELの拠点にする計画だ。

 栄枯盛衰は世の常である。しかし、野洲の機能が1枚ずつはがされるのを阻止できなかったのは日本IBMの経営陣に力がなかった結果でもある。HDDが日立に売られ、パソコンが中国レノボに売られ、今や日本IBMは「開発・製造を売ったら何が残る」と言われる“メーカー”の体だ。7月29日に大和事業所で大歳卓麻社長が自ら「IBM先進テクノロジと日本IBMの開発・製造戦略」を話すという。枯れ草の上で今更何をしようというのだろうか。